東吉野小下車 |
天誅組史跡 |
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魚見石 |
左記説明板 |
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魚見石の由来 神武夫皇紳東征の嘲(みぎり)、丹生、川上の地に於いて天神地祇を杷リ大和平定の成否を問われ、厳瓮(イッペ)を丹生川上神社神淵の夢河に沈められるや、やがて吉兆あらわれ大小の魚、木の尊のかく酔い耽れ尊い神助の瑞祥を得られた。その魚の流れの様を臣の椎根津彦が見届けた場所を、古くより魚見石と言い伝える。昭和十二年五月史蹟顕彰の為、石碑を建立するも両三度の災禍を蒙り、川筋の景観一変せるを以て小区篤志の協賛に依り碑を高所にうつし、頗彰の意を継ぐ。昭和五十六年八月六日達成 | 原石鼎と東吉野について(下記にその内容を掲載) |
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俳人原石鼎と深吉野 石鼎にとって出雲は父であり、吉野は母であろう。 医専を失敗して京都を去ってからの二年余の東京での放浪生活は、生活に安定のないまま、いたずらに寂寥と焦燥にかりたてられ、ここにも長くとどまることが出来なかった。大正元年春、吉野山中に魅せられるように入山した理由の一つに、東京を去りがてに見た活動写真の一シーン に深く感動したからだという。その一幕というのは老彫刻家に師事する一人の弟子が、その彫刻家より勘当を受けたので、決意して深山に入り日々斎戒沐浴して彫刻にはげむ、勘当したもののその弟子のことが 気にかかり、老師は弟子のあとを追って山には入り、小屋がけの中のいま彫りあがった女体を覗き見して、その作品の崇高さに打たれ、直ちに勘当を解き相接して喜んだという。それが故郷へ帰ることわすすめられた虚子先生と自分とを暗示してもののように受け取られ、たまたま再会した兄が、吉野山中で医者を開業するのに従ったのが機縁となって、兄が下山ののちもここにとどまることになったという。 深吉野はかって経験したことのない大自然であり純朴な人情は石鼎の俳句心を育てる好餌であったともいえよう。石鼎がはじめての俳画展覧会に出品した、出山の釈迦と題する墨染の坊さんを見た小野蕪子氏は、これは釈迦ではなく石鼎だ、出山の石鼎でありそうあってほしいといわれたが、東京を去って深吉野にはいったことは入山の石鼎ともいえよう。 そしてそこに待ち受けていたものは、兄の代診としての石鼎を迎える患者たちであった。石鼎はその患者たちを釈迦が弟子の一人一人、いや虫けらさえも救ったように、あらゆる知恵と機智をしぼって治療に当たった。こういう心情は人々に伝わらぬ筈はなく老幼男女を問わずみな石鼎に親近したという。 そして一方には神代さながらの森林と清流があって石鼎の天性を一層純化した。こうした日々、見るもの俳句ならざるはなく、聞くもの俳句ならざるはなしでやがて今日人々に膾炙される深吉野の俳業を成し遂げたのであるが、かの老師が弟子と喜びあったことを常に胸裡に、時には虚子先生にかげ膳を据えて、自ずから炊く膳に向かったという。 石鼎の俳句はこの時より石鼎の化身となって、生涯俳句一途に果てることを決心したのである。 しかし、吉野山人の懇望により再び医学校に学び医師として再度の入山をもくろみ、父の勘当を解き医学校への復学を乞うたが、父は頑として「俳句をやめざれば勘当を解きがたし」というのであきらめて俳句一本へと再び放浪の生活に入ったが、吉野山中での開花は石鼎に自信をもたせ、心あるひとびとは深吉野の俳句を高く評価して、石鼎を迎えるにやぶさかではなかった。 三十にしてなお独身の石鼎はやがて意と決して上京、虚子先生の許を訪れたが、この度は虚子先生も心よく石鼎を迎え、ホトトギス発行所の一員に如えられた。 石鼎の俳句は深吉野につぐ海岸時代(米子海岸放浪)を経て 都会時代にはいるわけであるが、この深吉野の俳句にかけた石鼎の青春は、 深吉野に建つ「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」の句碑と共に永久に生きることであろう。 原 コウ子 (神林良吉、原裕編「深吉野」より |
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原石鼎表側 |
石鼎庵内部 |
民俗資料館 |
天照寺 |
天照寺から丹生 川上神社へ |
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ツルマンリョウはヤブコウジ科に属し毎年7月黄白色の花が咲き翌年秋球形の果実が紅熟する。ツルマンリョウの自生地として希有だけでなく北限にあたる貴重なものとして昭和32年5月天然記念物に指定された | ||
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この町の集落地図 左は三尾地区、右は狭戸(セバト)地区 |
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よき淵へ降りる |
良き淵へ下りる 径あり宮涼し 森田峠 |
狭戸トンネルを潜って 大豆尾、ふるさと村温泉へ |