23年つれづれ
23.1.27 新年の初散策 三輪〜穴師神社〜柳本   ナビ役ブログから借用

今年初めてのなら歩楽歩楽会は、シニア8名で、三輪駅から柳本駅まで、あまり訪れるもののいない神社や古墳を探し求め、散策。山の辺の道や上ツ道は何回か歩いていますが、一路外れると、未知の世界。
小雪ちらつくなか、迷いながらも、由緒深い神社や下調べしていなければ見過ごしてしまう古墳を訪れました。
毎年訪ねている大神神社参拝は省略し、大直禰子神社へ直行します。
大直禰子神社は「若宮さん」と呼ばれています。
祭神は、大物主神の子孫大直禰子命(大田田根子)です。

久延彦(くえひこ)神社に登ります。
久延彦神社は、学業の守護神、智恵の大神です。
大神神社の末社です。
祭神久延毘古命は、「古事記」の大国主命の国作り神話に見える案山子(かかし)だそうで、居ながらにして世の中の事をことごとくお知りになるという智恵の大神です。

大美和の辻の直ぐ北から茅原に行く予定が、分岐道に気づかず、山の辺の道を玄賓庵近くまで進んでしまい、ようやくの分岐で茅原に向かいました。
茅原集落で現在場所がわからず、通りすがりの住民に、神御前神社、富士神社・厳島神社の所在を尋ねると、「神社名は知らないが、小さな神社ならこのちかくにある」と案内してもらえました。少し行き過ぎたところでした。

茅原集落の北端に茅原大墓古墳です。
茅原大墓古墳では、発掘調査中でした。


上の写真は、茅原大墓古墳頂からの展望です。大神神社の大鳥居、右に香具山、畝傍山、耳成山が望まれる

箸中の国津神社に向かう。小川光三氏が『大和の原像』で提唱した「太陽の道」上にある神社です。
祭神は、「記紀」神話による、素盞鳴尊が天照大神と天の安河を中にはさんで誓約をしたとき、天照大神の玉を物実として成り出た男神5柱で、素戔嗚尊が合祭されています

太陽の道
小川光三氏が「大和の原像」で提唱
泊瀬山(天神山)〜桧原神社〜箸墓古墳〜穴虫峠を東西に連ねるライン。東西に延ばすと、東に「伊勢の斎宮址」、西に「淡路島伊勢の森(伊勢久留麻神社)」がある。

国津神社の北東にホケノ山古墳があります。HPの写真等参照されたし。

近くの三輪山慶運寺境内には、6基前後の古墳時代後期の古墳があったそうです。
境内に、刳抜式の石棺の身に建治形と呼ばれる「弥勒菩薩」が刻まれている「石棺仏」があり、慶運寺の裏には、後世の開発によって墳丘が改変され、墳形は判らないが、南面する円墳と考えられる乱石積で構築した両袖式の横穴式石室があります。

穴師坐兵主神社に急ぎます。
穴師坐兵主神社で遅れてきたOさんとようやく合流。

相撲発祥の地「カタヤケシ」

小雪が降り出しました。
このあたりで昼食をとり、周辺探訪を計画していたのですが、小雪舞い、寒さも厳しくなったので、喫茶卑弥呼庵に直行することにしました。三輪山も陰ってきました。

穴師(景行天皇陵東) 万葉歌碑
 三輪山を・・・ 額田王 巻1〜17,18   Dscn5722
      中河與一揮毫 

卑弥呼庵で、昼食をとらせてもらい、雪が止むまで、和風コーヒーでしばし懇談。

崇神天皇陵南濠堤
Dscn5723

崇神天皇陵の濠には、今日は、水鳥が少なかったですが、オシドリが泳いでいました。
黒塚古墳で時間調整し、柳本駅から桜井経由で八木に出て、いつもの店で反省会。ドアtoドアで、18千歩

 
 23.2.17 若草台・追分梅林〜西ノ京週辺 薬師寺東塔修理へ
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        散策から切り上げた時点では雨が降り出した由。
追分梅林

東方に若草山を見て、奈良盆地が一望される高台にあり、約10ヘクタールの傾斜地に約6千本の梅花が、3月上旬〜中旬にかけて、紅白色とりどりに花を咲かせる。 

奈良市指定文化財「追分本陣村井家住宅」

 わずか車1台しか通れない国道308号線(暗越奈良街道)が南北に走る道と交叉、北へ行くと「霊山寺」、南へ行くと大和郡山「矢田寺」。この角に、追分の本陣と呼ばれる「村井家」がある。

19世紀初め〜中期に建てられた主屋は、屋根が茅葺と桟瓦葺を組み合わせた大和棟形式で、この主屋の南東に上段の間、控の間、玄関などからなる座敷棟が接続、奈良市内では珍しい宿場建築として貴重なので、昭和59年3月に奈良市指定文化財に指定されている。

奈良市指定文化財「追分本陣村井家住宅」 

 わずか車1台しか通れない国道308号線(暗越奈良街道)が南北に走る道と交叉、北へ行くと「霊山寺」、南へ行くと大和郡山「矢田寺」。この角に、追分の本陣と呼ばれる「村井家」がある。

19世紀初め〜中期に建てられた主屋は、屋根が茅葺と桟瓦葺を組み合わせた大和棟形式で、この主屋の南東に上段の間、控の間、玄関などからなる座敷棟が接続、奈良市内では珍しい宿場建築として貴重なので、昭和59年3月に奈良市指定文化財に指定されている。

富雄丸山古墳

4世紀後半、近畿地方でも最大級の円墳、直径86m。

古墳からは、碧玉製の腕飾、合子、琴柱形の石製品、銅製釧などが見つかっている。
富雄丸山古墳は、大和盆地の北西部を南北に走る矢田丘陵から東に派生した独立の丘を利用して築かれており、その時期は4世紀後半と推測されている。しかし、佐紀盾列古墳群で次々と巨大前方後円墳が築かれている時期に、なぜか直径86m、高さ10mと推定できる畿内では最大級の円墳として造営されている。しかも、周辺には他に目立つ古墳がなく、いわば単独で存在している。この古墳は、宅地開発による事前調査で、昭和47年(1972)に発掘調査が実施された。
埋葬施設は粘土槨で、南北方向を中心軸として2段に掘り込まれた墓壙(ぼこう)の内部に設けられていた。棺は残っていなかった。だが、粘土の床に残されていた窪み跡から推測して、長さ6.9m近い長大な竹割り形木棺が据え付けられていたようだ。この古墳は明治12〜13年頃に盗掘されたようだ。そのため、発掘調査の時に出土した副葬品はほどんどかき回された土の中から見つかっている。主な物に、管玉、鏃形石などの玉・石製品、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、鉄鑓、短甲などの武器・武具類の破片、斧、ヤリガンナ、鋸形鉄製品、錐・鑿形鉄製品、鍬先、鎌、刀子、ヤスなどの農耕具・漁具があった。その他に、巴形銅器、筒形銅製品、銅鏃などの銅製品も見つかっている。埴輪は墳頂上に配置されていたと思われ、その破片も出土している。 

富雄丸山古墳から出土したと伝承されている遺物が京都国立博物館に保管されていて、その中には重要文化財に指定されているものもある。明治時代に盗掘されたものが、古物商や好事家の手を経て博物館へまわってきたと推測されている。さらに、天理参考館や地元の弥勒寺が所蔵する舶載の三角縁神獣鏡4面も、この古墳から出土したとされる伝承品である。

一般に言われているように、古墳にはその形態や規模、施設、副葬品などに一定の制約があり、被葬者と中央のヤマト王権との関係を示している。その意味では、円墳に粘土槨という埋葬設備を持つ古墳の被葬者は、中央とはいささか距離を置いた存在だったかもしれない。しかし、舶載の三角縁神獣鏡4面をはじめ、さまざまなAクラスの副葬品が埋葬されていた点を考えれば、たいそうな権勢を有していた人物のように思える。あるいはナガスネヒコのように大和王権に逆らった在地豪族の墓だったのかもしれない。

滝寺磨崖仏
我が国でも最も古い磨崖仏の一つ。 昭和54年に奈良県指定史跡に登録。天平時代(8世紀頃)のものです。細粒室花崗片磨岩の岩肌に彫刻され、菩薩等を浮き彫りにした仏龕が五面配されています。滝寺の草創沿革については詳かではありません。

登弥神社
本殿御祭神
東本殿 高皇産霊神(たかみすみのかみ)
誉田別命(ほんだわけのみこと)
西本殿 神皇産霊神(かみむすびのかみ)
登美饒速日命(とみのにぎはやひのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
左右の小宮には、摂社として天照大神(あまてらすおおみかみ)、豊受比賣神(とようけひめのかみ)など十七柱の神を合祀、併せて二十二柱の神々を奉斎している。
登弥神社は通称、木島(このしま)明神と呼ばれている。登弥神社略記によると、この地は豪族ナガスネヒコがニギハヤヒを奉じて勢力を振い、そのために東征してきたイワレヒコ(=初代神武天皇)が度々苦戦を強いられた土地である。だが、奇しくも瑞鳥金鵄の出現とニギハヤヒの忠誠によって、遂にナガスネヒコを破り大和平定の大業を成し遂げることができた。そこで、イワレヒコは、神武天皇4年春2月23日、鳥見山中に皇祖天神を祀り、神恩に感謝の祭を斎行したが、その場所がこの地であったと伝承されている。

この神社の神域は、ニギハヤヒの住居または墓所であった白庭山であるとの伝説がある。後の時代に、ニギハヤヒの子孫である登美連(とみのむらじ)が、ゆかりのこの地に先祖であるニギハヤヒ夫妻と併せて天神地祇を祀ったのが、当神社の創建であると伝えられている。矢田坐久志玉比古神社から分霊との説がある。

六条山遺跡
弥生時代の竪穴住居跡です
西暦50年ごろから200年ごろまで、約150年続いた高地性集落だそうです昭和52年、県立西の京高等学校の建設に伴って発掘調査が行われました。調査地の中心部はすでに何回かの土取工事によって破壊されていましたが、東斜面の標高97mラインで11棟の竪穴住居跡と方形の土坑2基が検出されました。

創立30周年を迎えた平成19年6月2日(土)10:00〜12:00、本校会議室にて、「住民のみなさんと学ぶ地域の古代史公開講座『六条山遺跡と大和の弥生時代』」と題し、当時橿原考古学研究所の調査研究部長であった寺澤薫氏を講師に招いて、記念講座が開催されました。

六条地区の地域住民の方々を中心に、保護者、生徒、職員など約80名が参加し、見慣れた校地内の遺跡を舞台にした古代のロマンに思いを馳せ、熱心に学びました。この内容をご紹介しましょう。昭和51年11月、本校の開校に向けて開発されていた丘陵地に、弥生土器が落ちているのを発見した寺澤氏は、この地に遺跡があると確信され、翌52年に行われた橿原考古学研究所の調査によって、弥生時代後期(紀元前50年〜後200年)の住居跡「六条山遺跡」が発見されました。寺澤氏は、故・末永雅雄博士とともに、最前線でこの発掘に携わられたのです。その結果、現在のグランド周辺で弥生土器多数が出土し、校門から昇降口のあたりでは住居跡5基などが発掘されました。土器の総数は、1,183個体にのぼったということです。
六条山遺跡の竪穴式住居は標高100mの高台にあります。稲作が現在の六条西交差点のあたりで行われたとすれば、住居跡との高低差は40mほどあり、決して便利とはいえません。また、現在の会議室付近で発見された遺構には柱跡がなく、実用に適さない足つき土器やものを焼いた跡が多く発見されたことから、ここが祭祀や通信の場であったことがうかがえます。つまり、この集落は高地性集落で、人々は少し低いところにある田で稲作を営みながら、小高いこの地に住み、周辺の監視をしつつ、狼煙を中継したり集落を防御したりしていたのではないかと考えられるのです。現在校門前にある遺跡は、第3号と第5号の住居跡を埋め戻して土を盛り、保存したものです。家族単位で住んでいたようです
六条山遺跡の発掘と研究報告をとおして、弥生時代後期の土器の様式を編年する方法が確立され、細分研究が一気に進みました。また、すでにこの時代、いわゆる「家族」と呼ばれる単位が、集落の中で分かれて住んでいたことが追認できました。このころ奈良盆地には、水系に沿って20数箇所の集落が存在したといいますが、200年前後に政治再編のうねりの中でこれらの集落が消えていくまで、恵まれた環境の中で自然と共生しながら、奈良盆地の人々は安定した共同生活を営んでいたのではないかと考えられます。
弥生時代後期の高地性集落の遺跡の上に本校は建っています。四方の見晴らしがよい理由も納得できます。初代校長がこの地を弥生台と名づけたのもこの遺跡ゆえですし、「クラブハウス弥生」「総合的な学習の時間“弥生ゼミ”」なども、これにちなんだ命名です。気候のよい季節には、西高生が遺跡の上でお弁当を広げる姿が見られ、六条山遺跡は西高の風景の中に溶け込んでいます。2,000年以上前、弥生時代の人々が自然と語り合いながら稲を育て、見晴らしのよいこの地で家族仲良く暮らしていた…はるか昔のそんな情景を思い浮かべれば、いつもの風景がまた違って見えてくるようです。
この遺跡は立地から、高地性集落との関係が窺われますが、調査者(寺澤薫氏ら)は、弥生時代後期における一般的な農村集落と考えているそうです
                  

23.3.6 蕗の薹探し     ナビ役ブログから借用

なら歩楽歩楽会で、飛鳥から御所まで、蕗の薹を求めて、散策しました。
日曜日なので、平日なら参加できないメンバーの参加もあって、久しぶりに2桁11名参加でした。
真弓鑵子塚古墳は、私有地内にあり、現在は立ち入ることが出来ません。
牛子塚古墳周辺の雑木や笹は伐採され、遠くからでも古墳が見通せます。越塚御門古墳は、埋め戻されており、牽牛子塚古墳も従前の状態に戻されていました。

越智居館跡と思われるところを通り、天津石戸別(あまついわとわけ)神社に立ち寄り、光雲寺で昼食休憩です。
天津石戸別神社は、古来は「九頭(くず)神社」と称し、「越智氏系図」によると、元暦二年(1185年)越智氏の祖、親家が戦場守護神として祀ったとされている越智氏発祥の地です。
祭神は、天手力男命(あまノたぢからおノみこと)。拝殿はあるが、本殿はなく、板石を楯状に巡らした玉垣の中に御神体の樹木が生い茂っています。

光雲寺は、1346年(興国7年)越智邦澄が創建した越智氏の菩提寺です。
越智氏の没落後一時寺運衰えましたが、1680年代(天和年中)中興開山鉄牛が来住され、越智氏の石碑八基を改葬して復興に努め、1698年(元禄11年)天湫による再興以後「光雲寺」と称しています。

本日3基目の鑵子塚古墳です。
鑵子とは、湯釜・茶釜のことで、鑵子塚古墳とは、玄室が茶釜を逆さまにした形状の古墳を指します。
秋津遺跡を横切り、宮山古墳経由で宮戸橋バス停に出る予定でしたが、琴弾原日本武尊白鳥陵を訪れたことのないメンバーがいたので、また、前回訪問時に白鳥陵周辺にも蕗の花が咲いていたので、コース変更し、白鳥陵に立ち寄り、白鳥陵から條ウル神古墳、巨勢山古墳群条池支群と巡りました。
前回訪問時に蕗の花が咲いていた場所に、蕗の薹がたくさん芽生えていました。

あぜ道を通り、みやす塚古墳の近くに出ました。雨が降り出してきました。
1時間に1本の宮戸橋バス停のバスが出た時刻です。雨の中、バス停でバスを待つよりはと、御所駅まで歩くことにしました。10Km弱の散策予定が12Kmほどの散策となりました。御所駅近くのうどん屋で反省会。ドアtoドアで19千歩。

23.4.4 郡山城とサクラ見物
郡山駅より西方向に進み大納言塚に立ち寄り新木山古墳の横を通り新城神社に
でました。そして東に進み稗田環濠集落に入り売太神社到着。昼食、その後この
集落を抜けて佐保川に沿い歩き続けました。
奈良市と大和郡山の境界にでます。ここに羅城門橋がありこの辺りが平城京朱雀
大路の南端です。
羅城門があつたとこらしい。ここから郡山城をめざし歩きました。
みごとな桜を見ることができた。
23.4.21 龍王山     ナビ役ブログから借用

なら歩楽歩楽会シニア6名で、柳本から、龍王山古墳群コースを龍王山に登り、天理ダムまで散策しました。


23.5.19 吐山スズラン群落    ナビ役ブログから借用

なら歩楽歩楽会シニア5名で、吐山スズラン群落を訪ねた後、額井岳に登りました。
日本スズラン自生地の南限として昭和5年に天然記念物に指定されています。
その後、阿蘇山の山麓にスズラン群落が発見され、今日では、阿蘇市波野のスズラ
ン群落が南限といわれています。看板には、「開花は5月初旬から中旬」と記されて
いますが、蕾がようやく伸び始めたところです。よく探すと、ところどころで花が咲い
ていました。
日本スズランは、ドイツスズランと違って、葉の下に花がひっそりと咲くので、上から
は花が見えません。
吐山南口から、奈良県発行の「奈良百遊山」(平成16年3月発行)の額井岳コース
に従って額井岳に登ろうとしたのですが、登山口から山路への進入路が分からない。
目印の看板は無く、・・・
山路に入り尾根を目指したが、尾根と思ったところが小ピークだったので、いったん
退却。ようやくそれらしき山路を見つけ、再挑戦。
しかし、いつの間にかコースを外れたらしく、進路が南東にぶれ、急斜面をよじ登る
羽目になりました。急斜面をよじ登り、なんとか尾根道に出て、視界の効かない尾根
道を東進。額井岳頂上まであとわずか。南西尾根の峠 ようやく道標 朽ちている!
計画より2時間近く遅れでようやく額井岳頂上へ。展望台は朽ちて、立ち入り禁止。
3時近くになっていたので、戒場山登頂は諦め、十八神社に降りることにしました。
帰り道は、メインの登山道なので、随所に道標がありました。
天満台西4丁目バス停からバスで榛原駅に戻り、八木のいつもの店で反省会。

【ナビ役のM氏が奈良新聞記事を掲載した】
自生スズラン」増えた - 40株から2200株に/NPOが保護活動
2011年5月24日 奈良新聞
http://www.nara-np.co.jp/20110524104919.html

”桜井市小夫嵩方(おおぶだけほう)の山中で、12年前に確認された自生スズラン(ユ
リ科)の群落が40株から約2200株まで増えたことが、同地の環境NPO「山野草の里づ
くりの会」(福岡定晃理事長)の調査で分かった。
自生スズランは県版レッドデータブックの絶滅寸前種。宇陀市室生向淵と奈良市都
祁吐山町の群落は国の天然記念物に指定されている。桜井市でも古い記録などを
基に平成11年に現地調査を実施。ヒノキの植林地の中で、40株が残っていることが
数十年ぶりに確認された。
同地が福岡理事長の所有地で、研究者やボランティアの協力を得て、日照を妨げ
ていたヒノキを伐採したり、スズランを覆う雑草を除去するなどの保護活動を開始。
観測調査も毎年続け、群落の面積は2平方メートルから110平方メートルに広がり、
株数も55倍に増えた。
調査に協力している奈良植物研究会の横山和志明さんは、ナルコユリ(ユリ科)やネ
ザサ(イネ科)など周囲の多様な植生に注目。「共生の中でスズランが増えることがで
きたのでは」と指摘する。
福岡理事長は「余計な手を加えず里山の環境に戻そうとやってきた。どれだけ草を
刈るかも迷いながらだったが徐々にエリアを広げてきた」と喜び、「雑木林で、山の上
までスズランがあったという昔の状況まで復元したい」と話している。”


23.6.23 大安寺笹酒まつり見物 
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なら歩楽歩楽会シニア8名で、近鉄奈良駅から率川を辿り、大安寺杉山古墳、墓山
古墳、野神古墳を探訪、夏まつりの大安寺で笹酒を貰い、奈良市埋蔵文化財セン
ターまで散策しました。
西大寺まで散策する当初計画でしたが、強烈な日射と暑さのため、埋蔵文化財調
査センターで散策打ち切り、埋蔵文化財調査センター前からバスで新大宮に戻りました。


 23.9.29 新沢千塚古墳群
  漸く1年3ヶ月ぶりに世話役も試行参加
朝、好天に恵まれそうなのと体調も良さそうだったので、なら歩楽歩楽会の久し振りの
散策に飛び入り参加することとした。世話役の1年3ヶ月振りのハイクで、参加者も顔を
見てびっくりしている様子だった。参加者は女性一名を含め八人だった。
今回が、このなら歩楽歩楽会も140回目を数える。流石に年間回数のペースは減っ
てきてはいるがよくぞココまでーーーという感がある。

橿原神宮前から久米寺、久米御県神社、益田池堤跡、小谷古墳、宣化天皇陵から
新沢千塚古墳群の中を通り、最終千塚資料館まで約6キロ程度を歩き通せ、帰りは
八木駅までバスで帰った。女性は先に帰ったが、男性陣は駅前の何時もの居酒屋
で打上会。店のマスターも長く行っていなかったこともあって「久し振りですね」と
嬉し顔。約2時間ばかり駄弁って散会。

 23.10.27 奈良の東・田原めぐり
この日も快晴の一日、好天に恵まれた日だった。
今回参加はシニア6名。近鉄奈良駅からバスで約30分、田原大野バス停下車。降り
立った側の十輪寺を回り、太安万侶墓を目指す。十輪寺は、田原地区の大寺で最
盛時(江戸末期)は26ケ寺を数えたと言われている。最初は真言宗の長谷寺末寺だ
ったが、現在は法隆寺北室院の末寺になっている。
この地区は平日予約していないと製茶工場、炭作り、漬け物作り、木工、陶器・磁器
製作等の見学は叶わないと言う。この日もバスを降りた人は我々以外には一組程度
だった。太安万侶墓付近には茶畑もあり、ココで成瀬監督製作の「殯の森」ロケが
おこなれていた、と言う。田原東稜から太安万侶の墓に進む。トイレもなかった墓の
側には真新しいものが立っていた。墓はかなりの急勾配を登り、やっと辿り着くという
感じだった。丁度昼食時となったので平らなところを選んで昼飯を摂った。
一呼吸入れる世話役は、田原磨崖仏を見る五名のシニアを待っていることし、春日
天満宮で再度落ち合った。その後、大和棟の松本邸を見、田原西陵、側の万葉歌
碑を確認、もう一バス停先にある万葉歌碑を見るというシニアを見送り、世話役は田
原御陵バス停から乗車、合流して奈良へ戻った。歩数計シニアは約10キロ程度だと
言っていた。小生は8キロ程度にはなっているとの由。一人は先に帰ったが我々は
駅前の居酒屋で打上会。11月にはもう一回なら歩楽歩楽会を実施することとなった。
一頻り飲んだ後、飲み足りない三人は西大寺駅で更に杯を重ねた由。
 23.11.17 滝坂入口”春日道”散策
漸く秋も深まりだしたこの日、シニア六名で春日神社深くを散策した。この日も好天
だったが、奥深くに入っていくと、日陰はひんやりとして寒くなって来るようなな感じだ
った
小生の体調もまだ万全とは言えないので、小生は途中でUターンの積もりだったが
上記の感じと紅葉にはもう少し時間がかかると思われたこともあって全員が元来た道
を引き返した。春日さんの若宮の上へユックリペースで登っていった。
有名な石仏達手前の妙見宮当たりで昼を摂って、どうするとなった際上記のように引
き返すことに一致。
時間的には早かったので、最近開館された東大寺ミュージアムへ回った。
修学旅行生が大勢来ていた。この先寒くなるとこれらの旅行生も奈良には寄りつかな
くなってしまうだろう。ミュージアムには三月堂の佛が鎮座していた。
これだけではやはり寂しそうな感じを受けた。
午後3時過ぎには、近鉄奈良駅側の何時もの居酒屋でワイガヤで盛り上がり、約2時
間楽しんで散会した。西大寺駅で更に飲む二人連れもいたがーーー?
 
 23.11.25 談山神社〜明日香
先週に引き続き、久し振りに談山神社の紅葉見物にシニア六名が繰り出した。
今回は東京の御仁に入れ替わり、O婦人が入っての六名であった。
平日にしては、観光バスも結構繰り込んでいて、中国からの団体客もいた。
この日も予報のように寒くなく割合暖かかい一日であった。
しかし、神社周辺の人も言っていたとおり、紅葉そのものが遅れ気味で、色づきも今
一つの感がした。遅くまで暑くて、急に冷え込んだりとかが、理由のようだった。
我々はモミジを見た後、明日香へ下って行った。約10キロ地点に明日香の打上古墳
と言うのが有り、他の五名はそこに立ち寄るという。小生は近くとは言え、急坂もある
というのでそこへは行かず先に村の健康センタ行きの「かめバス」を待って、先回りし
た。神社からも坂道を下ってきたので、やはり足に疲れが出ていたようだ。
1時間強待つと一行が到着。近鉄飛鳥駅に出て、男達だけで八木の飲み屋へ立ち
寄り、約2時間ばかり駄弁って散会した。
 
 23.12.16 五位堂〜志津美間散策
寒さが一段と冷え込んだこの日、シニア男性五名で近鉄五位堂駅に集合、当初は王寺駅ま
での約10キロを予定して散策に繰り出した。
しかし、冷たい風で歩が進まず、昼飯も各自握り飯等を持参していたものの、暖かいファミレ
スに入っての食事を摂る始末。ただ、時には晴れ間も出て幾分かは気が晴れたりした。
小生は、志津美神社当たりで足が痛くなり、一足先に王寺駅へ出ようとしていたら、全員が
そこで行進をやめることとなった。予定の約半分程度の散策であった。時刻は時に4時前。
7〜8分JR線で王寺に出て、笑笑(ワラワラ)に腰を降ろしひと息ついた。ここも4時から店を
開けていた。しかし、他に入っている客は誰もいない状態が五時半くらいまで続いていた。
時間的な余裕から、我々は二時間半程度は駄弁っていたーーー?
 

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