21年後半つれづれ

       
     21年7月9日 山粕峠越え       

       テッキリ雨だと覚悟して出掛けた伊勢本街道の歩きの抜けていた部分
       =山粕峠=越えにシニア五名が参加。
       晴れ上がったと思うと流石に暑くその上湿気も加わって汗だくの峠越え
       歩きとなった。しかし、結果的にはそんなに急な坂道等はなく、一部
       雨だと滑りやすいところもあるもののコンクリートやアスファルト的な道は
       なく快適な散策行であった。
       山粕集落に入ると、この日サンケイ旅行が企画した街道歩きの参加者が
       三々五々いくつかのグループになって歩いてきてバス停側のセブンツー
       というスーパーに立ち寄り冷たいものを買い求めたり外の自販機で飲み物
       等を買い求めていく姿を何人も見た。
       奈良交通バス運転手に以前歩きかけた場所から街道歩きに行くのだと
       言っておくと山粕トンネル手前でおろしてくれた。ただし、バス停ではない
       ためか料金は一段跳ね上がっていた由。
       我々以外に街道を歩く人の姿は見かけず黒岩集落で昼にかかったが
       ここでも二、三の人影を見かけた程度だった。
       神社か寺を探したがそれも見かけずだったため、昼食は広場で摂った。
       
                   
       上はその時のスナップである。
       峠跡はスッカリ様相を変えていて、看板は建ててあったが風情は感じられなかった。
       午前11時頃歩き始めて午後1時半までには山粕西口バス停に辿り着いていた。
       距離的には約7キロ弱程度だと参加者の一人が言っていた。
       早めのバスに乗り榛原駅に戻ると美榛苑(ミハルエン)という温泉送迎バスの時間に
       丁度間に合い、一風呂浴びにそのバスに乗った。
       短時間で一風呂浴びて4時の帰りのバスに乗り再び榛原駅ほへ。
       いつものように八木駅前の店に入って反省会兼打上会を開催。
       この日は、早めに出来上がった?M氏が足がもつれたか?眉間の上を切り
       暫く落ち着くまで間があるというハプニングもあった。
   
                  

      21年9月17日 柳生から笠置へ        

       快晴の9月17日シニア六名で柳生まで行って笠置方面に向かう散策行を実施。途中、
       今までも降り立ったりその地点からバスを利用したりした円照寺バス停の犬を見かけた。
       人なつっこい酒屋の犬で、乗り降りする人を迎えたり、見送ったりしていた犬でもあった。
       見るとかなり高齢になり、右足に痙攣を起こしながらも今もバス利用客を迎えている
       様子だった。
       我々は、柳生で芳徳禅寺を見回った後、古城山経由で笠置を目指した。
       山に入ってしばらくの所に剣塚があり、そこには休憩所もあったので、昼食にした。
       暫く駄弁って、いよいよ笠置寺方面に向かう。もう3年も前になるが、一度は自然歩道が
       そのまま続いていると思って看板の「飛鳥路」を頼りにかさぎゴルフ場の裏手に入り込み、
       引き返さずに、藪の中を分け入って行けるところまで行こうと突っ切ったことがあり、
       木津川岸に建つ布目川発電所の上手に達したことがあった。その際の失敗を払拭する
       リベンジも兼ねての散策行でもあった。
       今回は、分岐点に新しく看板もあって、迷うことなく、阿対(アタヤ)の石仏も見、かさぎ
       ゴルフ場の前を通って、笠置寺門前に到達した。
       住職も側にいる様子ではあったが、この時期には参拝客も来ないからか、受付に人はいなく、
       拝観料も録音声で箱に入れてくれと繰り返すのみであった。今は物騒な世の中で仏像ドロも
       こんなことでは狙いやすい寺の一つではないかと話し合ったがーーー。
       石仏巡りに入り、巨大な石仏や寺内の高所から木津川の流れを見下ろしたりした。
       時間と距離もほどよい程度の散策となり、最後にわかさぎ温泉で一風呂浴びようと下りにかかる。
       約300メートルの高度からの坂道だけに最後は足に来る長い下り坂だった。
       温泉客も平日だけに疎らで割とユックリ浸かることが出来た。一風呂の後は、ビールで 
       喉を潤し、駅に向かう。ジャストに列車が到着。JR奈良駅まで列車に揺られて、
       いつもの天まであがれに繰り込んだ。

           

    21年10月20日 吉野川対岸行        

      曇り空で雨に降られるかとも思われるこの日に、今まで吉野方面に出かける  
      際には、電車の車窓から 眺めていた吉野川対岸を歩こうと本会の
      メンバー六人が下市口に降り立った。
      さすがに、この時期にこんな場所を歩く人はなく、我々だけの散策行となった。
      千石橋南詰に観光案内所があり、そこで地図等を入手、吉野川べりを歩こうと下に
      下りたが、この前の台風で樹木等が道を塞ぎ先に進めず、土手の道に上がった。
      吉野川の湧き水という場所で各自喉を潤し、岡峰古墳を目指す。
      近くまで行って郵便局で場所を再確認して上っていった。古墳は暗くてよく
      分からず仕舞。車の通る道から、この当たり一帯が菊等の栽培で名が通っている
      阿知賀という土地でその畑の野道を通ることとした。
      のんびりと植わっている花樹等の中を進み、龍洞院で昼食とすることにした。
      用を足そうとトイレを借りるとまだ、若手の住職さんがおられて、訪ねてきた
      我々を本堂に上げてくれ重文阿弥陀如来座像を拝顔させてくれ、説明もしてくれた。
      小半時、昼食等を摂った後、吉野神宮方面に出かけた。
      途中、柿等を売っている店のおばさんとも駄弁ったり、売っている柿等を買ったりし、
      開いていた花屋で売り花を覗き込んでゆっくりペースで進んで行った。時には、
      川縁に再度下りたが、やはり台風のため、道が続かず民家の二階で見ていた人に
      「通れないから、上に上がれ」と声をかけられたりした。
      川の両岸に現在の道路が開通するまでは、川を渡し船で人を運ぶ舟の賑やかなことも
      川端の説明板で分かるようになっていた。
      午後3時頃には、近鉄吉野口駅に到着、早い時間のため、喫茶店へ。
      吉野神宮には参らず、しばしの休憩を取った後、橿原神宮構内のいつもの居酒屋に
      入り、この日の一日を振り返った。


   21年10月29日から31日 伊勢本街道   奥津、多気、柿野まで 最終松阪駅      

     当初10月初めに予定したこの散策行は、台風18号により、延期を余儀なくされ
     この日からの実施となった。最終参加者も五人となったが、お伊勢参りを 
     踏破しようとする面々が意気揚々出かけていった。幸い、快晴で三日間とも快適な
     お伊勢参りの一工程となった。
     【第一日】
     揚々と伊勢・松阪に降り立ち、ここで昼食の後、JRの列車に乗ろうとして、駅員から 
     とんでもないことを聞かされ、泡を食うハメになった。台風のため乗る名松線が途中
     までしか動いていない、との由。その先はバス代行だという。しかし、我々の予定時刻の
     列車は、途中駅までで、それに接続するバスは出ない時間だという。
     急遽、タクシー運転手と交渉、5人で伊勢奥津までと頼み込み、値段も大幅?に安く
     してもらい、ほぼ予定した午後二時半頃に伊勢奥津に到着出来た。
     途中、どこをどう通ったのか判然とはしなかったが、運転手もこんな風にタクシーを利用
     する客はいない上、国道とはいうものの一人で松阪まで引き返したくないとと言う。帰りは
     もう少し車の多い道を通って帰ると言っていた。

     伊勢奥津の町並みは、旧美杉村の宣伝もかねて、家々に町全体を盛り上げようとする
     この地区の人々が、家の軒先に屋号を張り出していた。夕刻近い周囲の景色と解け合い
     ゆったりした時間が流れている風に感じられた。
     駅から一歩出ると、各案内書に書かれていた稲森酒造店があり、また、少し先に常夜灯も
     あって、往事を忍ばせる。正念寺門前を通過、飼坂峠方向に向かう。
     国道を横切り、右手に飼坂トンネルを見ながら峠道に入る。入った直後に「首切地蔵」が
     ある。追いはぎに遭って首を切られた旅人だという(さらに進むと腰折地蔵もある)。
     この時の時間は午後三時半頃であった。小休止を入れながら、高度500メートル強の
     飼坂峠に到着、茶屋跡を見渡したりし、眺めの良い展望台にも上った。
     午後4時頃のことである。
     周囲は、やや薄暗くなりかかっていたが、展望台からは、木々の間から、上多気の
     集落が見えていた。峠からの下りが難所の一つと言われる急峻坂にしては、ホンの一息
     区間程度だったように感じた。それよりも台風の爪痕があちこちに散見され、
     大雨のせいで、流木が歩道にもせり出し、危なっかしい道になっていたり、山肌が
     削られたり、地滑り状そのままの状態が続いていたりした。
     ようやくのことで、国道に出てきたのは、午後4時半頃であった。多気の集落に入り、
     宿に急ぐ。北畠家の往事を忍ぶのは、翌朝にしようと話し合い、結城屋目指して
     歩を進める。結城屋の前に当夜の宿「なかや」もあって、主人が偶々出てきたのを幸い、
     招き入れてくれた。この宿は、以前も「中屋」という宿屋だっと言う。
     歩いた汗を流させてもらい、夕食兼酒盛りとなったのは、午後七時半頃からであった。
     伊勢本街道を歩く人々が結城屋が営業休止と知って困ったのは、泊まる宿が消えた
     ことだった。我々も今年中に何とか伊勢街道の途中を踏破しようと企画していて、年齢的に
     泊まる宿がないためどうしようかと思案している際、メンバーの一人が直接結城屋さんに
     問い合わせたところ、新規に「なかや」という民宿が開店していることを知った。
     来てみて知ったのは、この家の主が農業をやりながら、空き屋となっていた「旧 中屋」の
     名前でこの地で民宿を開業しようと2,3年前からその準備をしていたこと、結城屋が
     仕出業は続けていたこと、そして何よりもこの家の主人が伊勢街道を歩き熟知しいたことが
     あげられる。飲みながら意見交換してみると、なおもこの地である町屋の人々にこの
     地全体を盛り上げるべく色々の提案を続けていることもわかり、伊勢本街道をさらに
     再度売り出していこうと奮闘している姿を思い知ったことだった。
     ただ、旧中屋と言うものの、普通の民家の延長でしかない状態で風呂場もどうにか
     二人が入れるだけのスペースでしかなく、のんびりと湯に浸かるというわけにはいか
     ないのも事実であった。さらにトイレも今少し改善を要しよう。この夜の夕食は、
     向かいの結城屋が用意したこの地の産物をふんだんに使った田舎料理でやはり
     遠くからくる我々クラスには格好の夕食であった。食後、向かいの女主人も外にいて
     頑張っている姿を見せ、さらに「なかや」を盛り立てていく決意を語ってくれていた。
     結城屋の前おかみも90歳を超えているものの、まだまだ元気で外の人の口にあう
     料理は西洋風だと言い張っているとかーーー。見上げると、月も夜空を明るく輝かせて
     いた。今夜はみんながぐっすり眠れる一夜になろう。

               

     【第二日】 
     朝、六時半頃から朝食前に北畠神社等を見学すべく、霧の立ちこめる町屋の中を
     出かけた。集落の人口も一頃に比べて減っている様子で、こんなに早くから起きている
     人は見かけず人影で動いていたのは我々だけだったーーー。

     この地が南伊勢の小京都に相応しいのは、西と東に相応の峠を戴く山に囲まれ、
     南に開けた今の京都と似ているのは勿論ながら往事はかなりの人々が住み着き盛大な
     商いを行っていたからだろうと推察される。今はその様子すら止めていない。
     美杉資料館前を通り、北畠神社に詣でると、立派な庭園が築かれ、今にその姿を
     見せてくれている。神社は静粛そのものであった。
     七時半頃宿に戻ってくると、パンとコーヒーが用意されていて、それを頂戴して出発の
     支度にかかる。はや、この家の奥さんは、松阪につとめに出かけるという。
     小3の娘も一緒に出かける由。
     出発は、八時半頃となった。なかやの主人と写真を撮りあって、我々は予定地である
     横野方面に出かけた。最後までなかや主人が手を振ってくれていた。
     15分程度歩くと、ここの名物羊羹屋「東屋」がある。まだ早い時間だったが、手土産と
     今日の途中でおやつ代わりにすべく箱入り羊羹を注文、暫くして主人も顔を見せ、
     色々駄弁った後で、一緒に写真に収まりここを後にした。
     国道と古道が出たり入ったりしていたが、もっぱら古道を選んで歩き、途中、鶯の水で喉を
     潤し、櫃坂峠手前の不動橋についたのは10時半頃だった。高度約400メートルという
     櫃坂峠ではあるが、泊まった町屋から約五〜六キロ程度だった。陸の三大難所といわれた
     峠だが、漸く高度250メートル以下の土地に降りることが出来る。
     橋の下に不動滝があって橋の上から覗き見は出来たが、降りる道がわからず、
     眺めるだけで三重県側の松阪市に入る。

     暫くで、昭和50年に廃村になった峠集落に至る。どうやらここら当たりが櫃坂峠の頂上に
     なる様子。峠付近に新道を作るべく新しい橋も架かっていたが、道そのものはまだ手つかず
     だった。トップ地点と思しき所から右手に峠を下る古道案内板があった。
     昼が近かったが、古道を下って見晴らしの良い場所でにぎり飯にありつこうと勾配のある坂道を
     下っていった。約150〜200メートル近く降りるとコンクリート橋があってやや広場になっている
     地点に出た。そこでなかや特製の「にぎりめし」弁当を広げ一息ついて暫しの休憩とした。
     時間は11時40分、再スタートは正午過ぎであった。
     国道は勾配のきつい直線状の古道とは違って北側に曲がりくねった道を抜けている。
     我々も暫くはアスファルト道等を行くが、国道に合流する。道は下がり一方でダラダラ坂。
     上仁柿集落の高福寺で古道を確認し、下仁柿に下っていく。両泉寺に立ち寄りおやつ
     羊羹を食す。さらに下ると仁柿小学校が見えてくるが、この日学校からは子供の歓声等は
     聞こえてこなかった。やや大規模集落である横野についたのは、午後2時過ぎ頃であった。
     柿野神社に立ち寄ったが改修中。メンバーの一人がここのバス停から早めに帰るので
     それまで缶ジュース等を買い込んでバス到着まで暫しの休憩を取っていた。
     3時半過ぎのバスで帰っていく一人を見送り、櫛田川を越えて、今日の宿・粥見の「高光館」
     に向かう。南に約30分程度歩いて宿に到着したのは、午後4時頃だった。
     この夜の夕食は、一人が帰って四人だったこともあって昨夜のように飲むわけでもなく、
     ややスローダウン気味に飲み食べたように感じる。テレビもかかっていたためか、
     それほどのしゃべりでもなかった。早めに寝床に入り、いつの間にか全員が眠っていた。       

    【第三日】     
     食事を七時半から頂戴し、この地区のお寺や次の行程の下調べをして帰ろうとして
     いたら、高光館の主人が、今日の仕出し料理の仕入れに市場に行く序でがあるので、
     車で松阪まで送っていきましょうと言ってくれた。
     前日、地図を見ていたメンバーの一人が、出来れば、ここ深野の棚田が有名だと
     知ったので、そこに立ち寄りたいと言う。気安くではそこに立ち寄りましょうと主人も
     言ってくれた。それまでに主人の小学校時代の先生で、校長で辞めて今住職をして
     いる来迎寺に寄らせてもらう。偶々、住職を見かけたので、本堂に入れてくれ、
     来歴や寺の鐘楼に関する色々の話を聞かせてもらい、お茶も出してもらえた。
     旅館館主が寺の上手側に広がる石段作りの棚田を案内してくれたが、日本中にも
     数少ない棚田とかで、数は約300万個というとてつもない数の石を積み上げて
     祖先から脈々と受け継がれ今もこの地の農家がそれを守り続けている由。
     米作だけでなく、茶畑としても利用されていた。時に午前9時過ぎであった。
     我々はバス停でおろしてもらい、そこから先は松阪までバスを利用するつもりだったが
     なおも旅館館主が、このまま伊勢街道の途中のスポットを見ながら車で松阪まで行きます
     からと言い張り、大石地区にある不動院、つるの渡し跡を巡って松阪駅に出た。
     謂わば、この日、車で見て回ったのは、次回の下調べに相当し、やや早手回しの
     スポット散策の一助ともなるものとなった。
     時間は、まだ10時半過ぎ、暫く観光案内所に入って松阪の地図等案内パンフをあさり
     喫茶店さがしに商店街をぶらつく。しかし、人が多い町にしては手近な喫茶店が見
     あたらず駅近くに戻ってきてやっと一軒みつけて入った。暫し休憩し11時半頃店を
     でた。駅構内で早い昼を摂っていこうと見かけた「めるへん」に入り、全員きつねうどんを
     注文して食した。
     12時過ぎの近鉄電車急行に乗り込み、この日は真っ直ぐ各自家に直行とした。
     


   21年11月12日 茶臼山古墳から巻向遺跡へ  

    11月12日シニア五名で今話題になっている茶臼山古墳と巻向遺跡建物跡を
    メインに主に桜井から巻向を散策しに出かけた。雨降りを予想していたがこの日は
    曇天ながら歩く間、雨に降られることはなかった。
    茶臼山古墳では、説明会のあとではあったものの、まだ機材等もそのままに橿原考古学
    研究所の作業員達が発掘跡の整理作業を続けていた。作業の邪魔にならないようにと
    早々に追い立てられたが、中を覗くことが出来た。
    城島(シキシキマ)小学校前に出、長谷川=大和川堤防から式内神社、志貴神社、磯城
    瑞籬宮跡碑(シキミズガキミヤアト)を通り、平等寺は素通りして、桜井市の埋蔵文化財
    センターへ行った。
    丁度、巻向遺跡の発掘で賑わっていることから、発掘展示物が当時をよくよく分かるように
    並べられたり、図示されたり、説明を加えていることで仔細説明という展示状態であった。
    今は、このセンターも入場料として300円を取っていた。時に正午になったので、広場に
    長椅子も置いてあったのを幸い、ここで昼食とした。
    歩くと丁度良い季候とはいうものの、ジッとしていると薄ら寒くなるので、早々に上津道を
    辿って、箸墓方面に向かう。何回か来ている箸墓(看板は大市墓)にも立ち寄り、更に
    巻向駅方向に歩く。駅近くになると果たして上津道がどうなっているのかと思われるが
    駅には行かず、この付近の石塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳を巡った
    後で、今回の発掘現場である巻向駅西側を覗く。説明会が今週末の土日に開かれる
    ためか、桜井市教育委員会立ち会いの作業が続けられており、職員と作業員達が
    忙しそうに体を動かしていた。俳優の刈谷氏も作業ボランティアとして中に入っておられ
    たのを確認した。氏はここだけでなく田の古墳発掘作業にも参加されている由だが
    並の作業ではあるまいと思う。
    この日は、ここで切り上げて、JRで桜井経由近鉄八木に出、いつもの店へ繰り込んだ。


  21年11月26日 当尾めぐり         
    3年ぶりに浄瑠璃寺と岩船寺を主とする当尾巡りにシニア7名が出かけた。
    この日は絶好の秋日和で大勢の観光客もバスで繰り込んでいた。我々は
    浄瑠璃寺手前でバスを降り、寺までの石仏を見、途中のとりどりの彩りを
    眺めながら寺に到着。ゆっくりと浄瑠璃寺を回りながら秋色を堪能。
    残念ながら三重の塔の御仏がアライグマに荒らされ、修復のため
    現在はお留守との張り紙にガッカリした。何回か来た本堂の九体の仏は
    今回はパス。早めの昼食を寺を出た食堂で済ませて、岩船寺に向かう。
    そぞろ歩きの人は、多くはなくバスで来た客は、浄瑠璃寺だけで帰っていく
    ようだった。
    我々は、途中「藪の中の三体地蔵」、「寝仏」、「わらい仏」、「弥勒摩崖仏」
    岩船寺近くの「三体地蔵」などを見ながら、のんびりペースで岩船寺へ。
    時間的には、まだ早い時間だったが、ここにはバス一台が駐車しているだけで、
    他に観光客は疎らであった。
    寺前の喫茶兼土産物屋で一息入れるべく、コーヒー等を注文、それを摂った
    後で寺に入った。
    観光客の一人と寺の御坊が一頻り喋っていたが、他に2,3人の客のみであった。
    ここも三重の塔があり、日が照っていなかったせいかややヒッソリとした雰囲気だった。
    やや奥まったところに以前39坊を数えた往時に修行僧を集めるためとか、貝吹岩と
    いうのがあるので、見に行った。ここまで来ると、生駒連山と木津川の流れも
    遙かに見渡された。
    引き替えして、今回の帰りを浄瑠璃寺から近鉄奈良へ出るべく、再度浄瑠璃寺に
    向かう。浄瑠璃寺はなおも観光バスが繰り込んできたりして観光客が続いていた。
    我々は、3時半前のバスで奈良駅へ帰った。以後はいつもの「天まであがれ」へ
    繰り込み、ワイガヤの一時を楽しんだ。

  

   21年12月15日 磐余池周辺散策行  

     今年の最後の散策は、シニア六名で磐余池周辺の寺社と古墳巡りとした。
     参加者も当初予定の一人が風邪等で不参加となったが、入れ替わりに遠路
     駆けつけた御仁、一年ぶりの御仁もいて六名の散策行となった。
     一気に寒くなったので天候具合を気にしていたが、結果的にはそれほどの
     寒さでもなかったのが幸いした。
     近鉄大福駅をスタートして南下、吉備真備の墓と言われる蓮台寺から吉備池へ
     行った。ここは吉備廃寺跡で百済大寺ではないかといわれる場所で西には
     くっきりと二上山が眺める。そのためか、池の周囲に大津皇子の歌碑が建てられ
     往時を偲ばせる。
             皇子の歌等はHPに掲載しているので参照されたし。
     吉備池から磐余池跡だったという御厨子観音方面に移動。観音さんにもお参りして
     ボケ封じに少しの賽銭も投げ入れた。
     昼を腰掛けも見つかった稚桜神社で摂り、メスリ山古墳等を巡りに出かける。

     電車の窓からも見かけた山肌を削っている近くでもあったが、重機が動いている
     のは分かったが、何を建設しているのかは分からず仕舞の現場が近くに迫っていた。
     古墳に上ると、広場だけで、何も残っていなかった。反対側に降り、コロコロ山古墳を
     見、上之宮庭園遺跡、谷首古墳、大御門(オオミカド)神社等を回って阿倍野文殊院へ。
     平日で年末の気忙しい時期だけに、参拝客も疎らで我々以外にはあまり人を
     見かけなかった。西・東( 閼伽井古墳)の古墳を巡り、高台に上って来年の虎花壇を
     眺めた。
     土舞台、阿部城跡に立ち寄った後、直には早いのでファミレスで暫しの休憩として
     いつものように八木駅前の居酒屋へ。一人が早めに帰ったが、五人はいつものように
     ワイガヤでヒト論議をやって散会した。時に午後七時頃だった。

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