二上山麓当麻寺
暑くなる予報をものともせず、5月9日シニア7名で二上山麓当麻寺周辺の散策に繰り出した。
二上神社口から倭文神社、ふるさと公園あたりまでは快適な歩行であった。
最初の倭文神社では神主が送風機つきの掃除機で落ち葉等を吹き飛ばしながらの掃除の真っ最中であった。我々が行くと、神社の階段を写真に撮ってその写真の上に柚を乗せて食すると味がまろやかになるといきなり話し出した。本殿前でも神社由緒や元々ここが織物発祥の地だったこと、地名も滝麻が本来で最近の「当麻」というのはトウマでタイマではないとか、一帯の古話を一頻り喋ってくれた。
ボタンは当麻寺も有名ながら隣の石光寺のボタンが今を盛りと満開でひととき花を堪能することが出来、参加者一同もうっとりした気分で次の傘堂等に向かう。
高雄寺跡、傘堂を見、一休みところの茶店「傘」が休みかと話しているとそこのおかみが出てきてコーヒー程度ならと言ってくれた。一杯のコーヒーでのどを潤し、当麻寺の中将姫墓塔を回り、寺境内に入る。
お練り行列会式を数日後に控えているためか、参詣者も少なく静かな境内であった。
寺から駅までのんびりと歩いて、反省会を橿原神宮駅構内と決め、引き返す。
一頻り飲み食いで騒いでそれぞれ帰途についた。

葛城古道
東京からのシニアを加えた6名が4月11日葛城古道散策に繰り出した。
今回は、サクラの真っ盛りではあったが、人に会うことホンの僅かな一日だった。
近鉄御所駅から鴨山口神社~九品寺~一言主神社~極楽寺と歩いた一日だった。
幸い天候にも恵まれ、昼前にはみんな重ね着一枚は脱ぎ捨て、心地よい風を背に、前からも受けての快適な散策となった。時にはサクラも花吹雪のように舞い散る風情を見ることが出来た。
鴨山口神社手前の地元の人が草刈りをしているのに遭遇、その人が
「この前もドイツからここにきて色々話をしていった。一緒に撮った写真も遙々ドイツから送ってくれた」との話を聞いた。
早めの昼飯を鴨山口神社で摂った。
九品寺までには以前行ったときには気がつかなかった高丘の宮跡の碑も気に留めることが出来、こんなところにあったのかと話し合った。
快晴の九品寺では屋根の甍が照り返すまぶしい光景も目にした。一言主神社では遠路の参加者がそれぞれお守りを頂き、全員写真を撮ったりした。
そのあと、一気に今日の最終地点である極楽寺を目指すこととした。本来のコースではない車道を一気に歩いたとき、途中で出会った地元の人が登りの急な車道で「どこまで行くのか」と聞く始末であった。この時に約3キロ弱歩いた計算となる。
極楽寺から先の予定を中断、鳥井戸バス停から近鉄八木駅まで戻り、いつもの飲み屋と思ったが、張り紙に「従業員慰安のため本日休業」とあった。
仕方なくこの前にも一度利用した八木駅階下の飲み屋「ニュールシーナ」に入り、約2時間半今日一日の反省会兼打上会とした。それぞれがほろ酔い気分で、泊まり宿と自宅に帰っていった。

東京のシニア感想
懐かしの富雄川
富雄川の散策風景、懐かしく拝見しました。
富雄荘に3年間住みましたから、懐かしさは一入です。
子供の小学校の運動会に行きますと校庭から東大寺大仏殿が秋の陽にキラキラ光っているのが見え、なんとも言えない感慨でした。
長弓寺も駅の反対側で歩いて行った記憶がありますし、飛鳥カントリーでは苦い思いでも多々ございます。 皆様の楽しげな様子、何よりと存じます。
富雄も一度訪ねてみたいと思っています。

山の辺の道
今年も1月5日から散策行実施。
JRで到着していた2名と巻向駅で合流。シニア七名で真っ直ぐ東にとって、山の辺の道に出、森岡みかん園の側をとおり長岳寺方面へ向かう。
いつもの休憩所となっている卑弥呼庵でコーヒーを飲み、昼食場所を探しながら、衾田陵に立ち寄り、萱生集落を抜け、竹ノ内環濠集落を見て、やっとのことで営業中の「みちふく」という立ち寄り所に出くわした。偶々か先に夫婦連れの二人が店に入っていたが我々もにゅうめんを頼み昼食とした。
そこからは、ひたすら天理・石上神社を目指した。神社手前に工事中と出て、回り道を指示していたが歩き専門の我々だと通れると判断、暫く行くと地元の人が神社はもうすぐだと教えてくれた。
神社は、初詣客で多少は賑わっていたが、参拝を済ませしばらく休憩の後、天理駅に向かう。天理から西大寺に出て、階下の「味楽座」で打上会・新年会を開催。帰りの電車に乗る際、ホームと電車の間に足を踏み外しそうになった御仁も出て、盛大な新年会兼打上会となった。

河内飛鳥その二
てっきり晴れの予報だと思っていた3月27日、生憎の曇り空ながら東京からのシニアも参加して四人で河内飛鳥のその二として竹ノ内資料館当たりの散策に繰り出した。
太子町は聖徳太子ゆかりの史跡や天皇陵が数多くあるにも拘わらず、道案内は今一で、叡福寺を出てから次の用明陵へ行くに当たっては、お坊さんや子供にも教えを請わねばならない始末であった。
最初の叡福寺は彼岸も過ぎてひっそりと静まりかえってお参りのお客はちらほらのみ。
しかし塔頭は立派で、流石太子廟だと感じ入る。
向かいにある西方院も尼寺で手入れが行き届いている風情であった。
用明陵から推古陵にも案内を請うて漸く到着、そのころから雨がポツリポツリと降り出した。
降ったり止んだりの中を道の駅「近つ飛鳥の里太子」に着いて竹ノ内資料館はと見ると月・火は休みの張り紙、昼になったのでそこで昼食と休憩とした。
出掛けようとした頃には雨も本降りとなったので、見かけた看板の太子温泉へと思って歩いたが結構距離があった。
時間的には早かったが、湯を浴びた後、送りのバスが国分駅まで行くのを利用して、いつもの八木駅まで戻ることとした。温泉料900円は送り込みだと安く感じたーーー。
駅到着も早めのため、国分駅では喫茶、八木駅では小書店を覗き、いつもの「天まであがれ」には4時頃に入り、約2時間ばかりワイガヤで盛り上がった。

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柳生から笠置へ
梅雨晴れとはいかなかった6月25日、シニア三名で柳生から笠置への殿様街道歩きに出掛けた。
柳生集落の家老屋敷、柳生家の菩提寺見物までは順調にいったが、昼食後の歩きが難題となり、結果的には人の余り歩いていないルートを辿ることとなり、殿様街道と言われたルートを離れ、かさぎゴルフ場に沿う東側をひたすら踏破することとなった。
そもそも今の時期草木が生い茂り、あたやの石仏に出る案内標が見つからず、そのまま直進してゴルフ場のフェンスに突き当たった時に、”おやっ”と思ったものの、かなり入り込んでいたため専らそのまま歩き続けることとした。
時には、倒木が道を塞ぎそれを越えるのに一苦労したり、ゴルフ場からのOB球が何十個も落ちていた場所に出くわしたり、道が判然としない場所にもあい、どこに出るのかもハッキリしない不安な場面もあった。
しかし、最後まで、ゴルフ場のフェンスが続き、関電の標識が見えだした頃から、テッキリ布目川方面に向かっていると確信していた。布目川発電所が近づき、川の音が高くなって、顔を出したのが木津川の流れだった。
我々は、今回のルートを途中まで「飛鳥路」と表示されていたのを取替えて「新飛鳥路」と名付けることとした。
当初は数キロ程度の散策と踏んでいたのが、やはり10キロ程度の歩数を数える散策行となった。笠置では「いこいの館」で一風呂浴び、上がってビールを一杯宛飲み干し、JR関西線で奈良へ
戻った。奈良ではいつもの「天まであがれ」で精一杯の反省会。お互い新ルート探索の一日を
振り返って大いに意気を挙げた。

伊勢本街道曽爾編
6月12日シニア六名で伊勢本街道の一部散策と曽爾村のお亀の湯一風呂浴びに出掛けた。
快晴とはいかなかったが風もあり、割合過ごしやすい一日だった。
榛原からお伊勢参りで賑わったであろう山粕集落下車、伊勢本街道の一端をかすめるように歩き、山粕川と青蓮寺川の合流地点から曽爾村中心部へ入った。
地元の人が鎧岳と兜岳を訪ねると丁寧に歩く方向を指示して右側が鎧岳、左が兜岳、更にその左に屏風岩と教えてくれた。
田植えの終わった田んぼのオタマジャクシや蛙そのものを眺めて歩を進めた。
昼食場所を以前済浄坊渓谷を走破した際に立ち寄った門僕神社で摂ることとした。
地元の人が毎日手入れしているだけに百合の花が植えられていたり、拝殿にも綺麗に花が活けてあったりして、清々しく感じられた。
今日の最終地点お亀の湯を目指して歩いたが、結構の距離があり、一汗も二汗もかきながらやっと到着、まずは先に喉を潤そうとファームガーデンレストランに入る。土地のレストラン嬢も山粕から歩いてきたと言ったらビックリしたような顔をしていた。
そのあと、一風呂浴びて、更に地ビールを一杯宛飲んで、帰りのバスに間に合うよう再度下っていくこととした。
帰りは名張駅行きのバスを利用した。途中、柱状摂理の露岩も見えたが、大半は、疲れから居眠りをしていた様子だった。名張から大阪への途中である八木駅でいつもの店でいつものように反省会、約10キロ弱程度の散策を振り返った。

大宇陀の里
5月23日シニア五名で大宇陀の里を訪ねた。
この日も暑く昼前にはかなりの気温を記録していた様子だった。
この地も、又兵衛桜と旧暦11月のかぎろひには全国から大勢の人々で埋め尽くされるものの今頃は閑散としている。訪れる人も我々とあと数組の二人連れを見かけたのみ。
藤沢薬品創業者の家が薬の館になっているが、そこの管理人が外に立っていて江戸時代には人足3700人、900籠のかごがあり奈良県内でも郡山、五条と共に一時隆盛を誇った街であつたと話してくれた。
往時を偲ぶべく松山城跡を訪ねる。百数十メートルの小高い山で急坂はなく約20分程度で登り着いた。
城跡からは榛原方面~台高山脈の山々が見晴らされ、伸びすぎた杉林がなければ景観が効く高台と言える。
城跡を降りて昼食、そのあと松山城の重文指定の西口関門を見学、万葉公園に建っている人麻呂歌碑を巡り、一人を除いて一風呂浴びることとした。
回り道だったためか、温泉まではやや時間が掛かった。
風呂の後は、サッパリした気分で道の駅まで戻り、夕刻のバスで桜井駅まで出て、反省会はいつもの八木駅前で開催、参加者の口もなめらかだった。

念願であった葛城古道に連れて行っていただき感謝申し上げます。
 左手に倭国原を見ながらの散策は格別でした。
 畦道の様子から彼岸花の凄さが想像されます。
 是非、彼岸花の盛んな秋に再訪できることを願っています。

参加者の感想

今年のお水取り・お松明の火の粉の乱舞

茶筅の里・高山
予想に反しての雨模様の中、シニア5名で茶筅の里・高山に出掛けた。
近鉄富雄駅からバスを利用し、高山竹林園近くまで行き、竹林園で茶道具の他、茶筅製作工程の写真や飾られている数々の茶筅、竹細工と言うべき編み物針等を見た後、回りの約50種もの竹とササをゆっくり眺め、今から約500年前に鷹山宗砌(タカヤマソウゼイ)
が考案したと伝えている円楽寺跡を見学した。
昼近くになったので、バス停で見かけた「鶴亀庵」で蕎麦を摂った。そこは骨董品も展示していて結構な値段の古道具類も置かれていた他、庭石に何と六つものお目出度い姿が浮かび上がるという銘石もあり、雨でその一部らしき形が見えてはいた。蕎麦そのものも結構な値段であった。
降ったり止んだりを繰り返す雨でもあったので、城趾には行かず、富雄駅方面に向かう。
富雄川沿いに高山八幡宮に向かうが川沿いに遊歩道があり、そこを歩いているといつの間にか八幡宮を通り過ぎていた。上がった近くの法楽寺を先に見学、本堂は改築中で仏像等を拝めず、八幡宮へ。重文指定で階段を上がると古式然とした立派な三間社流造の本殿があったが手入れが今ひとつで古びた社殿が益々見窄らしい感を受けた。
降りてきた山門前がバス停で間近にバスが来ることもあって長弓寺まではバスに乗った。
ここは、奈良時代の僧行基の開基と伝えられる寺で一時は数多くの塔頭があった模様ながら現在は4塔頭のみになっている。本尊は木造十一面観音立像である。
ここから歩きに徹して飛鳥カントリ側にある王龍寺を目指した。かなりの距離を約30分程度歩いて到着。市内西部における数少ない照葉樹林の自然林で、山門近くには樹齢250余年と言われるスモモの巨樹がある。
ここを最後に富雄駅に戻り、所用のある一人が先に帰った他は更に電車で3駅の西大寺駅まで出向き、階下の味楽座で四人の打上会を開催。約2時間ばかりワイガヤで今日一日を振り返った。

奈良市内古社寺
2月7日散策はナビ役都合で昼の部に参加できず、シニア7名で奈良市内の隠れ古社寺めぐりに繰り出した。天候もそこそこの日和であった由で夕刻の打上会には一同晴れ晴れとした顔つきで席に着いていた。
圧巻は璉珹寺の秘仏・阿弥陀仏を拝観できたことだったと拝察。今まで50年に一度の開扉が毎年5月に開いているというのに今回のシニアには特別の計らいで拝観を許され、一同感嘆の声をしきりに上げていた。
今頃の季節に訪れる人の少ない寺であれば、粋な計らいもさもありなんかと推察した。
しかし、隠れ古社寺で人っけのいない場面に再々出くわしたようで、平日に訪れる我々の場合は何とかならないものかと考える。
ともあれ、当日の打ち上げは優に3時間を超える大宴会となったがそれでも尚物足りなさそうな顔、顔の様子であった。

19年つれづれ前半
甘樫の丘
シニア5名で甘樫丘メインの明日香散策に繰り出した。
風は冷たく昼食を摂った石舞台の広場から一旦は夢市楽座内の喫茶店に入ってコーヒーを頼んで身体を温める一時もあった。メインの甘樫丘で発見された蘇我邸跡に行ったが、盛んに跡地を埋め戻している文化財研究所所員達がいた。
更に発掘するとは思われるが、邸宅跡が復元されかっての姿が再現される時が待たれる。
ここまでの歩きの途中で、橘寺も覆いが掛けられ、工事中になっていた。一帯が世界文化遺産の候補になったことで、指定までの間に改修等を済ませておこうとしているのかもーー。
帰り道、ヒョンなことで、フキノトウを見かけ、全員がそのつみ取りに精を出す一幕もあった。
打上を八木駅前で思って入ったが、開店まで早く、またいつものマスターが休みで、そこを出て八木駅階下の別の飲み屋に入り、古代史論争等をサカナに盛り上がったひとときを過ごした。