奈良市内隠れ古社寺めぐり

 2月7日快晴の中、シニア男性7人で奈良市内中心部に点在するいわば
「隠れ古社寺」(朝日新聞奈良版にシリーズ中)をのんびりと歩いた。
早々に近鉄奈良駅を出発し、まずは北に向けて空海寺、五劫院を目指す。今日は「隠れ古社寺」がテーマなので、途中、氷室神社には立ち寄ったが、戒壇院や大仏殿などは横目に見て通り過ぎ、間もなく正倉院のある杜に出る。一瞬間通り過ぎようとしたが、そのえも言われぬ静寂さに惹かれ、狭い入り口から中へと誘われるように入る。
有名な校倉造りの宝庫を見るのは何年ぶりであろうか。その重厚にして優美な姿に只々感歎するばかりである。
 

氷室神社 


氷室神社由緒 


氷室神社 
 
鴎外の門で
奈良国立博物館
東北隅にあり
   左の 会津八一碑
おほらかに
 もろてのゆびを
 ひらかせて
 おほきほとけは
 あまたらしたり

空海寺 
 
五劫院 
「歴史の道」を左折し雑司町に入り、通りがかりの幼稚園児を連れた先生に空海寺の場所を尋ねると、「さあ、何処でしょうか?」と寺のことも知らない。仕方なくその先30bほど行くと、道沿いの右側に空海寺の山門があるではないか。やはり知られざる寺なのだと、一同しきりに感心?する。空海寺は東大寺の末社で、空海が東大寺別当に在職の時に建てた草庵とのことだが、現在の建物は新しくその面影はない。ただ、本堂の奥の石窟に空海が彫ったといわれる「阿那地蔵尊」が祀られているという。、裏手の暗い杜に空海の息ずかいも一寸感じられるようだ。 

二月堂 

三月堂 

東大寺鏡池に
棲息するワタカ説明板 

東大寺講堂跡碑  

正倉院 

当日の参加者一行 


五劫院
は空海寺から歩いて直ぐの北御門町の住宅地にあり、人影も疎らである。山門には「思惟山五劫院」とあり、奥に寄せ棟造りの重厚な本殿が見える。左側に見事な松の大木が左右に枝を張り、寺全体を明るく包んでいる。この寺は、江戸時代に大仏殿を復興・修理した造東大寺大勧進・公慶上人が眠る格式の高い寺である。本堂裏の片隅に生け垣に囲まれた石造の五輪塔がその墓だそうで、思わず手を合わせる。それにしても命がけで大仏殿を再興した公慶ゆかりの寺が東大寺の遙か奥に人知れずあることに一抹の淋しさを感じる。門を出る時、再び手を合わせた。

ここからもと来た道を引き返し、大仏殿裏の講堂跡に出る。広い野原に暖かな木漏れ日を浴びて鹿の一群がこちらを見ている。ここから二月堂にかけてのゆるやかな坂道はいつ来ても美しく、絵など描けない私でも絵心を覚える。今回の趣旨?から有名な二月堂は寄らないと決めていたが、やはりその優美な姿に魅せられて、メンバーの5人が階段を駆け上がり、境内に入る。お水とりの季節ももう直ぐだ。

時間は11時半近い。腹も減ってきたこともあり、手向山神社、若草山横、春日神社を急ぎ足で駆け抜け、いつもの「ささやきの道」に出る。以前、今日のメンバーの内2人が滝坂の道でヒルにさされて血だらけになったことがあり、N氏が「おい、この道にはヒルはいないだろうな?」と真顔で言うのが何とも可笑しい。たしかにこの道は昼でもじめじめと薄暗く、そんな感じもわからないわけではない。

「ささやきの道」を抜けると、閑静な住宅街ばかりの高畑町に出る。この辺りは新薬師寺など名刹も点在するが、何よりも昼食が優先、以前から懇意にしている焼きそば屋に飛び込む。女将さんはかなりのお年だが、いつ会っても元気な振る舞いで嬉しくなる。
目の前の鉄板で焼きそばとお好み焼きを腹いっぱいに食べると少し眠気ももよおすが、これから午後の行程もこなさなければならない。そそくさと高畑町を下り、直ぐに奈良町に入る。

まず今日のお目当ての一つである福智院の門を潜る。本堂にはおそらく我が国最大と思われる木造の地蔵菩薩(高さ2.7b、台座1.5b、光背5,1b)が本尊として祀られているのだが、堂はびっしりと閉まっており、境内には人影もない。
右奥に住職の立派な住まいがあり、インターホンを押してみるが、番犬の黒い犬が吠えるだけで誰も出てこず留守のようだ。やはり「隠れ寺…」のことはあり、これはこれでよいのだ。

 
 
手向山八幡宮
 
春日神社参廊

福智院山門 

十輪院山門 
 
十輪院

御霊神社 
     
仁徳歌碑

奈良町の中は迷路のように複雑である。十輪寺に寄り、庭にあるいくつかの石仏を見た後、近くの御霊神社に入る。以前、五条から栄山寺などを散策した時にもあちこちに御霊神社があったことを思い出すが、ここも同じ系列の神社で由来もおどろおどろしく、また複雑である。前掲の朝日新聞奈良版によると、この御霊神社も恨みを抱いて死んだ政治的敗者の怨霊を鎮めるために建立したもので、それが拓けた町中にあるのがいかにも奈良的である。本殿に祀られているのは藤原氏の陰謀で毒殺された井上皇后(光仁天皇の皇后)と他戸皇太子、その両脇の神殿が皇太子を廃されて憤死した早良親王(桓武天皇の弟)を筆頭に数人の皇族、そして藤原広嗣らも祀られている。奈良時代は天平文化の華がひらいたロマン豊かな時代であるが、政治の裏面史は血で血を争う時代でもあった。
 
 
l?寺

阿弥陀如来像
住職夫人が見せてくれた画集より参加者の一人が写し撮ったもの
 
 
 
崇道天皇社

徳融寺山門 

徳融寺案内板 
 
中将姫石塔
解説板 
 


御霊神社をさらに南に下ると、「ならまち格子の館」に休憩がてら立ち寄る。昔なつかしい商家をそのまま保存したものだが、随所に大工職人の工夫と匠の技が活かされていて納得の館である。興味深いのか、
N氏がなかなか出てこない。

その後、奈良町にも詳しいM氏の提案で、飛鳥の紀寺(現在は跡地のみ)が平城京に遷都後移った紀寺とされるl?寺(レンジョウジ)を訪ねることにする。その途中、民家の横に井上神社を見かけたが、これも御霊神社の系譜である。しかしその規模はあまりに小さく哀れを誘った。さらに行くと祟道天皇社に行き当たる。長い参道を行くと菊の御紋が嵌めこまれた本殿に出る。周知のように、祟道天皇というのは藤原種継暗殺事件で連座し憤死させられた早良親王に対し後に追号された天皇名で、悲劇の名称であり、前述したように御霊神社に祀られている。本殿横には高松宮殿下参拝の碑がそっと立っている。以前、北山の辺の一隅にある円照寺に行った折、長い参道の北寄りの山に祟道天皇陵があったことを思い出す。今日はまるで怨霊を鎮魂する旅のようでもある。
その近くの紀寺町にl?寺があった。隠れ古社寺でもこれほど由緒がありながら、一般に知られていない寺はないかもしれない。飛鳥の紀寺を移した寺であることはここの町名からも納得できるはずなのに…。門を入りしばらくうろうろしていると、美しいご婦人が現れた。多分住職夫人であろう。気さくに声を掛けてくれ、「ここの阿弥陀如来像は秘仏のため50年に1回しかご開帳できない、しかし最近は毎年5月には公開していますが…」とのこと。一寸がっかりしていると、「遠方から来られたようなので、特別お見せしましょう」と、嬉しい声がかかった。さすが、われわれを信心深いシニアと見てくれたのか…。

 
 
傳香寺山門 

率川神社 

奈良「天まであがれ」にて 


早速、堂内に入ると、正面に上半身裸の不思議な阿弥陀如来像(重文)が立っている。夫人の説明では、これは類例のない女性の仏像(木質)なのだそうだ。腰までが白い肌を出し、下半身はロングスカートのような布で被われている。男性のわれわれには一寸眩しい仏像である。その右側には観世音菩薩、左側には勢至菩薩(いずれも重文)が立っている。とりわけ観世音菩薩の流麗な姿に一同感歎の声を上げる。この仏像は先般まで東京の国立博物館の仏像展に出展されていたもので、後からその写真集を見せてもらった。それには仏像の横および背後から写された写真もあり、実に優美な姿である。
K氏が覗きこむようにそれをデジカメに収めたが、果たしてなかなかの芸術作品になっていた。

時間は午後3時を過ぎている。急いで次の徳融寺に寄る。門の脇の石碑に「豊公中将姫の旧蹟並御墓」とある。当麻寺ならともかく何故ここに中将姫かと、知識のない私は戸惑ったが、中に入れば、すぐにその謎が解ける。要すれば、ここ鳴川町の地は奈良朝の右大臣藤原豊公およびその娘中将姫の生誕地なである。歌舞伎の中将姫は継母にいじめられ、亡母を慕って尼となり、当麻寺に入るという物語だが、私はその歌舞伎を見たことがない。もっともM氏やU氏の話によれば、折口信夫の「死者の書」では、姫が二上山に葬られた大津皇子を慕う別の話のようだが、私は読んだことがない。
奥の暗がりに入ると、豊公、中将姫の墓が寄り添って立っている。何かそれだけでも、いとほしい気持ちになった。

今は舗装され道路になっている率川沿いに大通りに出ると、真向かいに伝香寺と率川神社が見える。今日の最終目的地である。その伝香寺であるが、危惧していたように門が厳重に閉まっており、中には入れなかった。筒井順慶をはじめとする筒井一族の菩提寺としてそれなりの知名度のある寺ではあるが、そこは「隠し寺…」、事前に予約しておかないと無理らしい。M氏は寺の中の由緒ある椿を見たかったようで、しきりに残念がっていた。

率川神社は隠れ社というよりは奈良市内では名の通った神社で、6月に催される「三枝祭」では巫女がササユリをかざして舞うことで知られる。しかしこの神社が三輪山の大神神社の摂社と説明されると、急に難解になる。大神神社の摂社である狭井神社はササユリを飾る疫病よけの神社として有名だが、率川神社が何故そこと関係するのか不明である。しかしここを訪れるのにそのような詮索は不要である。
賽銭箱に最後の小金を入れ、深々と参拝した。今日の「隠れ古社寺」の旅が無事終わったことへの感謝をこめながらである。
その後、いつものように乾いた喉を潤すべく近鉄奈良駅近くの愛用の酒場に駆け込んだが、間もなく今日昼の部に都合で参加できなかったU氏も馳せ参じて、遅くまで反省会で盛り上がったことは言うまでもない。                        

今回はナビ役が都合で昼の散策に参加できなかったため、参加者の写真、メモを元に本ページを作成しています。

 

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