一度は雨で中止とした済浄坊渓谷散策を7月12日に実施。曇り空でカンカン照りに比べればましなとは思いつつ歩を進めたが、湿度が高く小休止を繰り返さざるを得ない状況の一日だった。
曽爾側の横輪停留所から山へ入ったが、最初の登りがやや急な坂道で、長走の滝付近まで休み休みの進行だった。
漸く目無橋につき、そこから済浄坊渓谷へ向かう。渓谷の広場で昼食と休憩。食べているときにもポツリポツリと降りそうだったが、天候は最後までもった。滝は下から三番目くらいまで続き、大がかりな滝とは言えないが、結構楽しめる風情であった。渓谷を抜けると一旦木材搬出用の車道道に出る。クワタワ峠まで緩やかな登り道が続く。これが東海自然歩道となって龍穴神社から室生寺まで続いている。
峠では古びたトイレが建っている以外、めぼしいものはないが、ここは国見山、住塚山への分岐点でもあり標識は立派なものがあった。
問題はここからの下り道だった。足下が見えない状況でゴロゴロ石や背丈くらいの笹が生い茂り、時には倒木や切り倒した樹木の片付けが悪く、行く手を塞ぐ始末でかなり難渋した下りであった。
そこを抜けても、決して歩きやすい歩道とは言い難く、落合橋手前までは石畳道ながら、やはり急な坂道を下りることとなり、加えてぬかるんでいるため滑りやすく、全員慎重に歩を進め、やっとの事で宇野川バス停についた。この附近にはバンガロー風の民家も建っていたが住人はおらず、空き家とも見える状況だった。バス時間から更に龍穴神社まで歩き、一休みの後でバスに乗り室生口大野駅までもどり、いつもの「天まであがれ」に直行。13キロ歩行の打上を実施した。

平成18年のつれづれ

年末の西の京 奈良国立博物館へ

大和国一ノ宮
三輪明神  大神神社
御祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
記 神 大己貴神(おおむなちのかみ)
    少彦名神(すくなひこなのかみ)
 大物主大神は、世に大国主神(大国楼)の御名で知られる国土開拓の神で農工商業等あらゆる産業を開発し、方除・治病、進酒、製薬、交通・縁結び・開運等、世の中の幸福を増進することを計られた人間生活万般の守護神であります。
 後に神様の御恩召しによりその御魂(幸魂・奇魂)を三輪山に永くお留めになりそれ以来、秀麗な三輪山を御神体と崇めて、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、お山を拝するという原初の神祀りを今に伝えている我が国最古の神社であります。
この三輪の地は古く大和の文化発祥の地であり、当時の主要道路である山の辺の道の陸路、日本最古の市場である海柘榴市を終点とする初瀬川の水路により殷賑を極め、国家黎明期の政治・経済・文化の中心地でありました。
その後も当社に対する朝野の尊栄は殊に篤く、中古よりは大和国一ノ宮となり、名神大社二十二社の一つに列せられ、大神の神光はあまねく国内に広がりました。
また、平成四年より始まりました「平成の大造営」事業により、平成九年に新たに祈祷殿、儀式殿、参集殿を築造、同十一年には重要文化財である三ツ鳥居、拝殿の保存修理が竣効し、その御神威が愈々仰がれています。

三輪山 標高四六七メートル・周囲十六キロメートル・面積三五〇ヘクタール(国の史跡)
三ツ鳥居 明神鳥居三基を組み合わせた独特の形式は古来一社の神秘とされています(国の重要文化財)           
拝殿 寛文四年(一六六四)四代将軍徳川家綱公改建(国の重要文化財)

そもそものキッカケとなった山の辺の道巡りに男性7名、女性2名が繰り出した。
この道は桜井〜天理までが16キロと案内書には記載されているものの紅葉はあまり顧みられる事の少ない道でもある。
今回もテレビ等で紅葉の美しいと宣伝されている談山神社方面には同じ桜井駅から大勢の人が押し出されるように降り立ったが、我々の歩く三輪方面に向かう人の流れは疎らであった。桜井駅から歩いて三輪明神に向かう。この道を始めて歩く参加者もいて、海柘榴市跡や仏教伝来の地の標識が立っている所を回り、平等寺を抜けて三輪明神に入った。
それぞれ参拝の後、狭井神社にも立ち寄り、一路檜原神社を目指す。
檜原神社側のお休み処で持ってきたものと注文したにゅーめんや粕汁と共に昼食を摂った。
いつもは素通りしていた相撲神社と兵主神社にたちより、たった一回の筆だという会津八一の万葉歌碑も確認し、崇神天皇陵を抜けて喫茶卑弥呼庵へ。ゆったりとした時を過ごして、帰り道の側にある天理市黒塚古墳展示館で三角縁神獣鏡のプロトタイプに見入り、柳本駅から桜井経由、いつもの天まであがれで反省会。ひとり都合で帰った御仁も出たが、参加した女性陣の飲みっぷりに圧倒されながら、一頻りワイガヤで大いに盛り上がった打ち上げ会となった。

青山高原散策

雨模様を心配することの予報から好天となった6月13日連休の際行けなかった平井大師等の巨石群への散策行を実施。しかし、結果的には平井大師の奥からの立石、寝石等へのルートには出ずに戻り道に出てしまい、再び降りたバス停から榛原駅に引き返す羽目となった散策行であった。
その理由は以下の通りである。偶々、見田・大澤古墳をみた後、地元の75才になる区長鴻池氏と出会い、奈良交通案内ルートには載っていない観音寺を案内され、また、300年も続く地元の名家を指図されたりしながら、氏の邸宅を通ることとなったが、丁度道ばたに面して邸宅があるため、早めの昼食を摂らせて貰った。参加者に缶ジュースを振る舞ってもらい、近くの山の故事来歴を聞いたり元々集落が9軒から始まり、今は10数軒になっているものの、若者は村を離れて生活している等で、ここも老齢者が増え何事にしてもなかなか力仕事がし難くなっているとのことであった。小半時休憩を取ったあと、近くだという平井大師に向かった。
村人が近くという割には、ちょっとは歩いた距離に大師山への案内標があり、街道とは違う山道に入ったが、民家への道であって、再度引き返して大師山を目指した。漸く大師山への入口に到達、登り口に一本のササユリが咲いているのを目にして、山門へ登っていった。

前回の参加者の写真等を見ながら、平井大師に到着、八十八カ所霊場石仏があちこちに鎮座しているのに見とれて中間近くの鎮魂の舎で休憩していると、榛原から車でお参りに来たというシニア男性に会い、一頻り彼の来歴を聞かされることとなった。
彼の出身は青森県津軽地方とかで、独り立ちできるか否かの頃から父親が東京に働きに出ろと命じられ暫く働いていたが、身体をこわして、母親等のいる広島に戻り静養、それが癒えたころ、また、大阪に出ろと言われて転々としたとのことであった。長じて寝屋川当たりにいたようだが、都会地を離れて家を建てようと思ってあちこち探し回り、約25年前榛原に住まいを決めたとのことであった。
毎日の通勤時間が2時間は優に超すという毎日を送り、還暦を期に仕事を辞め、俳句、詩吟、剣道等が気楽に出来る今のような生活に入った。今日は奥さんが内牧の方で踊りの会があり、送ってきて時間があるので、ここまで登ってきたとの話であった。

最初から話し方に訛りがあったように思って話しかけたのがそもそも長居することとなり、すっかり巨石群へのルート確認をせずに山門を下りたのが道を間違える原因となった。まわりに土地の人がいない所では仕方なく道路に出たが、それは一度大師山に行った道路と判明。
時間的なことから戻ることと決めたが、バス停へ行く途中で集落の百姓に合い、この人とも、椎間板ヘルニアをやったとか、大正時代の米騒動話まで飛び出す話をし、肝心のバス停を教えられているのに、戻ったバス停が朝下りた一つ手前の岩崎橋停だった。
 

多太会との合同洞川行

賀名生梅林

阿吽寺と船宿寺へ

新年始動

雨の散策。
年末になり今年最後のなら歩楽歩楽会の散策を何回目かの西の京から大安寺と計画して西大寺駅に5名が集合。しかし、当日はスタートから雨降りで笠をさしての出足となった。西大寺境内を抜け、菅原~社から喜光寺に回る。喜光寺は薬師寺傘下になって派遣の寺守が居ついているようで、誰もいない
と思って入っていくと事務所から御坊が飛び出し、拝観料300円を入り口の缶に入れてくれとの大声。
一人宛払い終わるとその御坊が本堂の由緒書きまで付いてきてこの寺の由来を説明してくれた。このまえの時は台風か何かで回りの木々が倒れたりしていたように思ったが、今は2010年に南門を再建するとかで工事に掛かったばかりの様子だった。
降りしきる雨の中を垂仁天皇陵を眺めて西側にある平松町皇大神社に田んぼの畦道を通って立ち寄った。ここも町内の人が世話している様子が感じられる風情であった。
その後、垂仁天皇陵の陪塚にも寄ったが早々に天皇陵入り口に回り、薬師寺方面に向かった。奈良の伝統工芸職人が数軒で工芸技術を見せたり品物を売ったりしている「一徹長屋」につき、一軒だけうどん屋を開いている店に入り昼食を摂ろうとした。しかし、時間が早かったからか、奥から出てきたおかみさん?らしき人はまだ支度に時間が掛かると言って断られそうになったが、我々から待つした。
やっと全員が天ぷらうどんにありつき一息入れることが出来た。
後は、大安寺までの散策を打ち切り、奈良に回って国立博物館で開催中のおん祭りと春日信仰の美術展他を見ることとした。2時間ばかりで本館、新館とも見て回り、先に帰る一人を除いていつもの反省会。奈良でいつも行く「天まであがれ」でゆっくり飲むことが出来た一時であった。 

河内飛鳥歩き 第一回

伊勢本街道歩きの開始

寒さ厳しい1月、2月はじめはパスした。
同期会読書会の翌日2月15日に奈良や西大寺周辺を散策することとした。雨模様の予報が出ていたがメインポイントを回る間は降られずに済んだ。平城旧跡当たりは人が多いときもあるものの、今回我々が回ったウワナベ・コナベ両古墳や瓢箪山古墳というところはあまり人が入り込まない場所でもある。
古墳の池や水上池には鴨等の渡り鳥他が多く集まり羽を休めたり餌をとったりの風情に暫し見とれたりした後、平城天皇陵や神功皇后陵他を見、やはり必ず足を踏み入れる秋篠寺に立ち寄り、最終西大寺で締めくくりとした。早めの反省会を開き、3時間半にも及んだワイガヤをお開きにした一日だった。

10月25日伊勢本街道散策にシニア4名が繰り出した。
近鉄榛原駅から高井までバスに乗り、そのあと仏隆寺行きを右に逸れ、案内表に従って諸木野集落まで約40分程度歩いた。高井バス停の近くに千本杉があり、16本程度の杉が亭々と聳え、小さな祠も祀られ難病に効くという水飲み場もあった。そこには指定の松本家と津越家が古の縁を忍ばせる風情で建っていた。
途中本街道を見失うような所もあり、泣き叫ぶ犬の吠えた細い街道に入っていって本街道だと分かり昔行き交った室町時代の関所跡を過ぎて漸く30戸ほどの諸木野集落に到着。
ちょっとした東屋風の休憩場所を見つけて昼食を摂った。
ここから、石割峠までが小半時はかかったろうか、それらしき峠に立ったが、これと言うめぼしい標識もない峠で回りも見渡せず、やや寂しい峠であった。
下りもやや急な道ではあったが、一旦アスファルト道路に出て、元田口集落に着く。ここの専明寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土真宗寺院で落ち着いた雰囲気を感じさせるお寺であった。
先に進むべく山粕峠に向かうが時間的に帰りのバスに間に合わないと判断、ホンの少し引き返して血原橋バス停から室生口大野駅に出た。
この街道の最後、伊勢まで歩き通したいと言う参加者もいて、後日このバス停を起点に先を歩こうと言う話もでる街道歩きの一日となった。確かに近鉄のてくてくマップにもないハイキングコースであり、ちょっと残念な感じもした散策コースと言えよう。
いつもの通り、八木駅前の天まであがれでこの日の疲れを癒した打上会となり、次回以降の散策コース選定にワイガヤの一時を過ごした。 

当尾散策

真夏の散策をパスしたなら歩楽歩楽会であったが、再開後の初回は素朴な散策道がつづく三重県の青山高原にシニア6名で出掛けた。一時雨の予報通り布引の滝を見物し昼食を摂った後にザアーと雨が降ったものの、他は天候にも恵まれ、約12〜13キロの散策を楽しんだ。
東青山駅から西青山駅へのコースを辿ったが、駅で貰ったてくてくマップも各自の持ち寄りを照らし合わせると、今の案内地図には消えているコースが載っていて、先導者がその古い地図の散策道に入っていったため、若干近道を通ったこととなった。しかし、快適な道は三角点附近までで、別荘地として開発された西青山は、途中やたら階段が作られていて、中には500段以上の急坂もあって、やや閉口する場面もあった。
その上、別荘地から国道に出るが、乗馬クラブがある附近で案内板らしきものがなく、地図を手がかりにそれらしき道を探し当てて西青山駅に向かうというハプニングもあった。
近鉄も降り立った東青山駅ホームに駅員一人がいた他は、西青山駅は無人駅という始末で、マップに乗車印を押して貰うことも出来ない有様だった。
ともかく無事に我々は青山高原散策を済ませ、いつものワイガヤを八木前天まであがれにて開催、一日を振り返って盛り上がった。

ページを見た東京シニアの感想
楽しそうで羨ましいことです。私は高田で町内のお宮さんの秋のお祭りに出かけておりました。
青山高原は青年婦人部の遠足で行ったことがありませんでしたでしょうかね。
高田は、「目にはさやかに見えねども、風の音にぞ・・」の季節に入りました。寄せていただく機会のあることを祈っています。
10月11日予定の生駒山一部縦走は都合により中止いたしました。
快晴の6月21日、シニア六名で榛原から室生湖畔〜室生口大野駅までの約13キロの散策に繰り出した。バスで天満台二丁目まで行き、そこからはテクテク歩き通した。最初の十八神社まではかなりの勾配の坂道を登るが、以後は専ら下り坂となる。十八神社からは展望がひらけ、眼下に榛原の町や西方を見渡すことが出来た。約一キロ程度で万葉歌人・山部赤人の墓と伝承されている五輪塔と歌碑がある。大和富士・額井岳の南に位置し、村人が守り通してきた墓地は綺麗に手入れがされていた。
次に向かったのは、戒長寺、ここも重文や県指定の天然記念物がある割には、住職常駐ではないらしく、ちらほらお参り客が来ていたものの、ひっそりしていた。しかし、最近の建て替えか、トイレは水洗で立派なものが建っていた。ここで我々の昼食を摂った。
室生湖畔沿いに出るまでに国道165号線側に葛神社があり、樹齢の古いカヤの大木が聳えていた。また、途中の土手にはホタルブクロの他、早くも萩の花が咲いていた。
歩いた道は、大半が舗装路で、カンカン照りのこの日にはかなりの疲れが出そうな道であった。室生湖には、立派な吊り橋が架かっているが、山辺赤人といかなる関係もなさそうなのに橋の名前は赤人橋という。
約5キロは湖畔を歩き、漸く竜鎮渓谷に達する。大和の名水といわれる渓谷は、清々しく、滝の勢いもあって歩いてきた我々を癒してくれた。最後の大野駅まで約2キロ強を歩いて、大野寺、摩崖仏を拝観して駅に到着。
いつもの八木駅前「天まであがれ」に着いたのは4時半を回っていた。 
梅雨入り間近の6月4日多太会親睦旅行に歩楽歩楽会から5名参加。総勢9名。お天気を心配したが、「みたらい渓谷」入り口辺りで小雨も上がり、緑したたる中、ウツギの白、まだ残る山藤の紫がきれい。体力に不安のある人も、渓谷美ときれいな水に目を奪われ、なんとか洞川温泉「あたらしや」まで完歩した。
夜の宴は、おいしい川魚、山菜、豆腐に舌鼓を打ち、旅館の横を流れる川では、カジカの鳴き声も聞こえ、お酒の量も進み、部屋へもどっての二次会も盛り上がった。

 翌朝は、大峰山へ向かう一行が吹き鳴らす「ほら貝」を聞きながら朝食。我々も、竜泉寺から自然研究路へ向かう。かりがね橋、展望台、蝙蝠・蟷螂の岩屋、河鹿の滝、「嫁が茶屋」で昼食(茶屋の看板嫁は昨年代替わりした由)茶屋裏のクリンソウが満開だった。
昼食後、母公堂、ごろごろ水を経て温泉街へ戻り休憩。主婦二人は、ごろごろ水と名水豆腐をお土産にして満足の様子。
バスから、「下市口」駅へ降り立つと、下界はむっとする暑さ。今さらながら洞川の清涼な空気が懐かしかった。 
ナビ役風邪でダウンの一日、東京からのシニアご夫婦も交えて6名で榛原の奥にある大師様拝観を兼ねて嶽太郎、嶽次郎の巨石、カラト寝石と言われる大岩等、最終宇太水分神社散策に出掛けた。
連休も後半で天候を懸念したが、好天にも恵まれ、落ち葉の散策道を快適に歩き通した由、ナビ役も家にいながらホッとした報告を受けた。
今までの散策では出会わなかったリスや狐も見かけたとのことで、さぞ思い出深い一日となったことと推察している。
反省会を兼ねた懇親会はいつもの八木駅前「天まであがれ」で賑やかに打ち上げたとのことであった。 
以前、訪れた柳生に降り立ち、そこを起点として京都府側の笠置までを往復した散策行をシニア五名で実施。雨に降られるかなぁと思いながらも、快適な足取りで往復12キロを歩き通して全員が今日は歩いたなぁと言う感触に浸った一日だった。
起点からは一気に200メートル強の古城山に登るため、息せき切ってという感じだったが、そこを越えると少しで笠置寺境内に入る。寺の修行場巡りの巨石群を見て周り、再度200メートルもの下りを降りて、木津川堤防に出、川沿いに布目陸橋を右折して布目川を左手に見ながら、柳生まで引き返した。 

仏骼宸ニ室生寺

偶々ひな祭り当日となったが、巨瀬の阿吽寺椿見物と、そのまま峠越えしての船路の船宿寺に出掛けた。しかし生憎、今年阿吽寺はまだ大半の椿は咲いておらずややがっかりの感となった。しかし、阿吽寺を出てきて土地の人に一頻りこの当たりの今昔について講釈してもらったりし、気を取り直して栗阪峠に向かった。途中の八幡神社で早めの昼食を摂り、一回見ている水泥古墳や大穴持神社はパスしてひたすら峠を目指した。椎茸手入れに来ていた土地の百姓さんが、放り投げてある大根を我々が見ていると「もう使わないから持って行け」と言い、参加者の一人が1本引き抜いて貰い受けそのままリュックに括り付けた。
峠ではクリーンセンタ側の広大な民家にビックリしたり、下りかけに小川のクレソンに見入ったりし、葛木御歳(ミトシ)神社参拝に立ち寄り、船宿寺までの野原では「つくし」採りに精を出したりした。
流石に船宿寺も花は、蝋梅程度でまだ早かった。あと一組参拝客が来ていたが、我々は早めのバスに乗り高田経由八木の「天まであがれ」に直行、いつもの反省会となった。
 

感想
年末近くに左足ふくらはぎを肉離れで痛め、以来無聊を囲っていましたが、久しぶりに散策に参加しました。三月ひな祭りの日、長い冬も漸く終わろうという頃ですが、風は未だ冷たく花々の蕾がほころぶには未だ日がかかりそうです。楽しみにして訪ねた椿の寺、阿吽寺もちらほら咲き、以前訪れた折、親切に案内して頂いた住職さんも本格シーズン到来まで不在とことでした。
この辺り一帯は、古くには葛城氏と並ぶ豪族、巨勢一族が権勢を振るったところで史跡が沢山あるようですが、今は静かな山村になっています。畑仕事の古老が気さくに声をかけてくれ、某氏は畑の新鮮な大根を引き抜いて頂戴しました。野道に土筆を始めとした山菜を探しながら、うらうらと散策、なんとものどかな一日でした。

明け方まで降っていた雨も止んで散策日和となった9月27日シニア9名で当尾の里に出掛けた。流石にこの時期は秋のシーズン前とあって浄瑠璃寺あたりに来る人はチラホラ程度ながら中には観光バスの約40名の集団に出くわした。他には殆ど人を見かけることなく岩船寺も回り、のんびりとした散策となった。
当尾の里のみだと約6キロ程度であるが、帰途加茂方面までテクテク歩いたのでこの日の歩行距離は約10キロ程度かと推察できる。
今回、以外なことは、黄色のヒガンバナと帰り道参加者の一人が拾ったタマ虫だろうか。
打上会を奈良の商店街の飲み屋(ここは4時から開けている由)で実施し、次回日程を決めて散会した。 

 朱雀(南壁)

青龍(東壁)

玄武(北壁)

晴天のこの日、橿原考古学研究所博物館の御所・ヒビキ遺跡の邸宅模型と飛鳥資料館でのキトラ古墳の白虎部分の展示見学にシニア11名が繰り出した。
博物館は人も少なかったが、白虎展示にはバス停に人が並び、資料館では90分待ちの表示が出されている状況で直ぐに見学とはいかなかった。
帰りを急ぐ一人のみそのまま列に並んだが、他の10名は3時入場の整理券を入手し、資料館芝生で買った弁当を広げて昼食を先に摂った。
その後、時間があるので周辺散策に出掛け、飛鳥坐神社〜甘樫丘〜川原展望台〜鉄釜鋳造所跡〜弥勒石と回って再度資料館に戻った。
整理券待ちの人は我々も入れて50名、時間になって一列に並んで館内に入ったが、そこも行列が出来ていた。白虎展示は、やや高い展示箱のようなものに設えてあり、温度管理もなされていたが、二人程度が並んで見られるようになっているものの、やはりごく短時間の一瞥という感じで順番にアッという間の見物で終わった。
帰りもバスで近鉄橿原神宮駅に戻り、いつもの反省会場・八木駅前「天まであがれ」に直行。一時、今日一日の反省を込めてワイガヤで盛り上がった。 

嶽の立石 カラト寝石 宇太水分神社

雨か曇りの予報に反して好天になった4月7日樹齢千年と言う奈良県内の東方・榛原から室生よりに所在する仏隆寺にシニア6名が繰り出した。バスを降り、途中土筆やフキノトウ等の野草を探したり、咲いていた草花に見とれたりしながら寺前にかかった。その間観光バスが3台も脇をすり抜けていったが、肝心の桜は”つぼみ”状態だった。
高さは16メートルに達し、道には千年さくらまつりの幟がはためいていたが、説明書には900年とも950年とも書かれているが、何せ日本一のさくらだと言う。咲くのにあと1週間から10日程度は掛かると思われた。
寺を拝観し、大和茶発祥碑や堅恵修行の石窟、寺の前が公園と整備され、それに水車が回っているのを眺め、参加者のひとりが「よもぎ餅」を配ってくれたのを頬張ったりした後、室生寺に向かった。
最初の2キロ弱がやや急な登りの室生古道の風情を残していたが、唐戸峠からは周りが一変、新道が作られ、それが拡幅されて車でもあがれそうな新道になって全く興ざめの一語につきた。
以前来たことのある参加者のボヤキを聞きながらも、腰折地蔵に到着、新しい建物に鎮座する地蔵を拝観、近道して西光寺にも立ち寄り300年の枝垂れ桜を見たが、ここもまだ咲いてはいなかった。
室生寺門前では、滅多に出くわさない葬式行事もあったりしたが、午後2時前、遅めの昼食にありつきホッとした一時を過ごした。
その後は寺参詣者と更に奥にある龍穴神社拝観者にわかれたが、龍穴神社の奥にある龍穴は、到達出来ずに再訪を期してバスに乗った。室生寺参詣者も神社口バス停で合流、近鉄室生口大野駅に向かう。
駅手前の大野寺は流石にさくら満開で、こちらに先に来れば良かったと誰しもが口にしたことだった。
いつもの八木駅駅前の居酒屋でワイガヤとんったが、遅めの昼食が災いしてか、やや静かな一時だった。



雲一つない快晴の3月15日、四人のシニアで旧西吉野村の賀名生梅林を訪ねた。
今年は梅の花もまだまだの感であって、訪ねる人もまばらであった。我々はバスを降りて、南朝の皇居跡を見学し、隣に五條市との合併に際して建てられた?歴史資料館を見学。旧役場職員らしい案内人の話を聞きながら、在りし日の南朝の数多い展示品に見入ったり、説明を聞いて驚いたりしながら、小半時そこで過ごした。
そのあと、やや急坂に近い梅林の咲き具合を見回った。桜ではないが、かなりの奥まで梅が植えられ、ぐるっと一周すると5キロは優にあるように説明書きには記載されている。 人影は少ないものの梅林管理のお百姓さんのお婆さんや嫁さん等が道ばたに店をひらき呼び込みに精を出していた。その一軒のお婆さんに畑に入って昼食OKをもらい周りの梅を見ながら昼飯を食べ、店の土産品を数店買ったあと、古刹らしい集落寺院拝観に向かった。生憎山門付近を工事中で中へは入らずだったが、中に咲いていた紅梅は見事なものだった。
まだ奥もあったが、参加者の一人が地元の「こんにゃく」をほおばりながら梅林を降り、バス停付近でコーヒー休憩の後、地元の春日神社に向かう。
土地の人は「お宮サン」と呼んでいて、我々が春日神社と言っても即には、分からず案内書籍を見てお宮サンだと説明してくれた。すぐそこと言う割には、やや時間がかかって神社に着いたが、階段があるわけではなく、登りの急坂をやっとで山門に辿り着くありさまだった。
重文指定ながら、やや荒れていたが、南朝の面影らしき風情でもあった。
その後は、バスで八木駅前まで帰り、いつもの店で反省会を開き、好天の一日を振り返っていた。
新年1月4日は、今まで行っていない聖林寺初詣でを兼ねて桜井の次の駅=大和朝倉=側の外鎌山(トカマヤマ)登山と忍坂・舒明天皇陵、石位寺、倉橋の溜め池経由、崇峻天皇陵立ち寄り後、聖林寺ルートを散策した。
今年の冬は寒さ厳しく、風も冷たいままではあったが、いつも以上の12名の参加者がいて、盛り上がった新年散策行となった。聖林寺は初詣客も少なく、拝観後の参加者の顔は紅潮し、何時にない面持ちの参加者たちであったように感じた。
帰りは桜井駅まで歩いたが、途中に談山神社大鳥居にはビックリだった。
反省会はいつもの八木駅前、参加者2名が帰ったが、この会にだけ参加という御仁も加わった11名の大盛り上げ会となった。 
晩秋の山の辺の道
快晴の秋の一日、シニア6名で飛鳥とも切っても切れない河内飛鳥ルートの一つに繰り出した。平日で出掛けてきている人は少なかったが、約8キロに亘る歩きやすい散策道を堪能出来た。
近つ飛鳥博物館では、河内豪族が一時とは言えいかに勢力を張っていたかを具に見渡す事が出来たし、そこの喫茶コーナーで早めの昼食も摂って後の散策を快適なものにしてくれた。
今までは専ら奈良の明日香ばかりに比重をかけていたこともあり、この一帯の古墳群がかなり大規模なものになっていることも改めて感じ入った次第。
平石城趾ではボランティアの人が道の整備に精を出しているのにも出会い、清々しい気持ちで後のコースを歩き通す気にさせてくれた。
最終、弘川寺は夕刻にさしかかり、横手の西行記念館も駆け足的に見学させてもらったが、やはりもう少し時間に余裕をもって見学するところだと今になって思い返している。
 
済浄坊渓谷散策

榛原 室生湖巡り

宇太水分神社 平井大師Uターン

下記に白虎以外の壁画を展示しておきます(全て朝日新聞パンフより

ヒビキ遺跡模型 キトラ壁画

柳生 笠置周遊

佐紀路と西大寺

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東京に住むシニアが郷里の新潟県・高田の満開の桜の写真を送ってくれました。

この時の写真を見た地元の人が二つある佐紀神社の正確な名称を教えて下さり、その指摘の通りに写真名称を訂正しております。ありがとうございました。今後とも出来る限り正確な名称表記に努めていきたいと考えています。