17年正月山の辺の道

仏教伝来地の碑

長谷川向かい側の
海柘榴市跡の標識

海柘榴市観音説明板

金屋の石仏説明板

同左石像庫

十代崇神天皇
磯城揣摩離宮跡

三輪神社側の平等寺

平等寺の塔

万葉歌碑

人麻呂万葉歌碑s


玄鬢庵護摩準備中

桧原神社

箸墓全景

箸墓考
  桧原神社で一服した後、いつもであれば、そのまま車谷から穴師へ向かうのだが、今日は左折して箸墓を迂回することにした。箸中へ向かう道は正面に二上山を遠望し素晴らしい景観だ。茶店の女将さんは、箸墓は10分も行くと直ぐだよ、と教えてくれたが、遅速のせいかその倍くらいはかかった。
  箸墓古墳は想像していた以上に巨大な前方後円墳で、全体が鬱蒼とした森に覆われている。宮内庁管理の鳥居の前の表示板には、大市墓と大きく書かれ、その横に倭迹日百襲姫神(ヤマトトトビモモソヒメ)とやや小さく書かれている。そうだ、この百襲姫こそ卑弥呼説の主人公だ、と一寸興奮気味に思った。勿論、事前ににわか勉強した浅薄な知識によるものだが、古代山の辺の道を歩き、この壮大かつ威圧的な古墳の風景に遭遇すると、それだけでそのような幻想に駆られるではないか。
  倭迹迹日百襲姫は崇神朝を最高位の巫女として支え、日本書紀では、大物主命との神婚伝説で有名だが、この時代は魏志倭人伝における邪馬台国(3世紀後半から4世紀初め)とぴったりと重なる。しかも百襲姫は強力
な巫女(シャーマン)である。そのことはすでに知られているが、素人の私が直感したのは、この威圧的な古墳の巨大さであり、今日これから通り過ぎる崇神、景行天皇陵にも匹敵する規模である。百襲姫が皇女であったとしても、天皇陵を同等か凌ぐ規模の古墳を何故築く必要があったのか、まことに不思議な謎といわざるを得ない。
そのようなロマンに一寸とらわれながら、穴師集落を迂回しながら、再び山の辺の道に戻り、景行天皇陵へと向かった。この迂回ルートこそ本当の山の辺の道だね、と言うと、同行の二人も笑って頷いた。   
                                 参加者の一人のメモ


大市墓
看板

   古墳の前に咲きみだれる
さざんか

桧原神社から西方を
眺める

玄賓庵

小林秀雄筆案内板

:景行天皇陵のろ号陪冢

JR柳本駅


柳本「卑弥呼庵」
店主夫婦と

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