JR王寺駅~信貴山~雁多尾畑(カリンドオバタ)~光徳寺
~峠八幡神社~JR三郷駅

 
今回初参加のシニア作成のクレヨン画

  
信貴山から下りる途中で見た
奈良盆地東方の眺め

 信貴山バス停

バス停を降りたときの
今回参加者の面々 
 
朝護孫子寺の案内図
 
虎の絵がかかる
横にはライオン像が!
  信貴山と虎の説明板
今から1400年余前、日本の国の平和を乱す朝敵物部守屋を討伐するため、聖徳太子が、此の山に来たり、戦勝の祈願をされると頭上に毘沙門天が出現され必勝の秘法を授けられた。奇しくもその日は寅年、寅の日、寅の刻であった。太子はその御加護で敵を滅ぼされ、世治まりて後、自ら天王の御尊像を彫まれ、伽藍を創建して、信ずべき、貴ぶべき山、「信貴山」と名付けられた。以来、信貴山の毘沙門天は虎に縁りのある福の神として、寅年、寅の日を縁日と定め大法要が行われている。
 
樹齢500年の銀杏
日本で高千穂岩戸神社境内一本だけとされていたが昭和58年7月偶然ここで二例目の発見となった
 
回廊の合間から
見えた多宝塔
 
 
開運橋を渡る今回参加者
全長106㍍幅約4㍍の「カンチレバー」という珍しい構造を持つ橋で2007年国の登録有形文化財指定
 
やや横手から撮影

法隆寺&信貴山
パンフ書中の
大門池にかかる
開運橋全景 

 
とっくり池の橋を渡り
雁多尾畑へ下る
参加者一同

眼下にJR王寺駅と大和川を眺める
 
今回初参加のシニア作成のクレヨン画
 

雁多尾畑地区の
竹林寺 mo

雁多尾畑地区の
生安寺 mo
 
柏原聖地霊園入口
付近で三々五々昼食
 
 
今回初参加のシニア
作成のクレヨン画

 光徳寺鐘楼
  光徳寺由緒
(下記に地名謂われの
説明あり)
 
雁多尾畑からJR三郷駅迄には亀の瀬崩れと言われる大地滑り帯の防災工事が今も継続されている。此の看板もその為のもの
地名の由来
  生駒山系の南端
 「かりんどうばた」という地名自体が、何か人を引きつける。大和に近い河内の片すみのような土地も秘境めくが、実際は高台の明るい環境である。しかし誰もが余り足をふみ入れていないことも事実であろう。
 雁多尾畑は昔は中河内郡大県村に属し『和名抄』にいう六郷の一つ、巨麻郷に当てられている。不思議な地名であるだけ、よけいにこの土地の起こりや歴史には興味がそそられる。(略)延喜式神名帳』には河内国大県郡に座す十一座のうちに、金山孫神社と金山孫女神社の二社として登載している。
吉田東伍は『地名辞書』に「金山神社、延喜式、金山孫神社いま青谷に在り、八大金剛童子と号す、金山孫女神社いま雁多尾畑に在り、山王権現と号す」と書いている。両社を訪れたところ現社地いずれも特別に式内社らしい景観や貫禄を備えた社頭ではなくて、実のところ私は式内社にいだいていた蒼古な姿の期待にはずれたのである。しかし名だたる古社である。私は両社共に旧社地が別に求められるのではないかという希望をもち、またこの両社はもともとは一社二座(彦神と姫社)で、上宮と下宮といった構成であったにちがいないという印象をまずもったのである。

(略)まず第一に金山比古、金山比畔は古代における鋳銅や製鉄の守り神だという基本的な体質をもっている以上、そしてこの地の式内社として古くから祀られている以上、この土地と製鉄文化の関係がまず分析されなければならないことになる。
山本博氏著『古代の製鉄』にはこの地の製鉄関係遺跡図が掲げられ、私はこれによってまずそのすべてを了解することが出来た。すでに鉄塊採集地や鉄滓採集地やかねふき山などが数ヵ所に亘って知られており、とくに笠松のかねふき山はいまも聖地として雑草も刈らないで保存されている。この地に近い竜田の風神も製鉄法に必要な「風」の守り神だと記載されているが、竜田の風神が製鉄の神か、農耕の神か、私には異論もある、しかしとにかく雁多尾畑の一帯が古代における製鉄文化の一つの中心であったことは判るし、金山の神が式内社として鎮座するゆかりも充分に説明される訳である。窪田蔵郎氏の『製鉄にまつわる地名』によると「カリ(刈谷・刈野・狩野)」があり、「かりんど畑」は「刈ん人畑」つまり製鉄にたずさわる人たちのいた所というのがこの不思議な地名の起源であろうとされている。(略)
     《近畿日本ブックス8 生駒と平群所収11章雁多尾畑より》    

今一つの地名由来は、この地にある光徳寺の寺号から来ている。
即ち、寺の由緒には下記のように記載されている。当寺は今から一千年前、平安時代永延二年(988)第六十四代円融法皇が延暦寺の僧法園(当時の元祖)に命じて建立、東廣山照曜峰寺(天台宗)と号した。その後天永四年(1113)南都北嶺の戦において七堂伽藍悉く焼失、ただ雁林堂(ガンリンドウ)一宇のみ残る、これが雁多尾畑(カリンドウウバタ)の地名の由来である。
(焼き払われた寺を安貞2年(1228年)近江国の圓城寺(三井寺)の僧俊円が照曜峰寺を再興。この年、御堀河天皇の宣旨を以て、河内国大県郡の山中300町歩の地を寄付され、寺号を改めて「照曜山光徳寺」の勅号を賜り、本堂を雁林堂とした。この本堂の名前がこの地の名前になったと言われる。)    

亀の瀬崩れのこと ブログ「亀の瀬の大和路線」より 
  地すべり災害の年表です
明治23年 建設中の大阪鉄道(現JR関西線)の亀の瀬トンネルの地上で地すべりが発生。 建設をあきらめ、違う場所から再掘削を始める。
     (当時は大阪と奈良間は未開通だった訳です)
明治36年 大和川の川床が隆起を始める。
昭和6年  11月27日 トンネルの地上部 峠地区で2条の亀裂発見。
   〃   11月29日 トンネル西口で亀裂発見。
昭和7年2月 1日 上り線 運休。   徒歩連絡の開始
   〃   2月18日 日を追って大和川が埋まり、崖が数ヶ所にわたり崩壊。
   〃 5月~10月 土石の除去作業が行われる。 (多くの朝鮮人労働者が従事する)
  32haが滑動、 水平53m移動 川床36m隆起  ダム状態となり上流 藤井地区に浸水箇所が発生。 
 このとき線路の移設工事が施工開始。
  亀の瀬西口 東口仮乗降所を開設し区間を徒歩で連絡した。
   〃  12月31日 単線にて切り替え工事完成。 
昭和10年 複線が復旧
昭和37年 地すべり対策工事が建設省の直轄事業となる。
昭和42年 鉄道に影響は無かったが、再び地すべりが発生 水平26m移動
川床1mが隆起、対岸の国道24号線が1m隆起。
 (現在通行しても隆起箇所が分かります)

以上  現場の掲示板 柏原市史 聞き取り ウィキペディア等を参考に作成しました。

以下、亀の瀬地崩れに関しては、大和川河川事務所の防災工事等の各種資料がネット上に
多数掲載、啓発活動がなされていますのでそれらのものを参照されたい。


亀の瀬防災工事地区にある峠八幡神社に立ち寄り 

神社本殿 

参加者全員でダベリ 

ヒガン花 

 
峠八幡神社から出てきて大和川に出くわす

 JR三郷駅近く、大和川にかかる大正橋 
mo
JR三郷駅南西へ徒歩3分ほど
万葉歌碑
神奈備の
岩瀬の杜の
喚子鳥(よぶこどり)  
いたくな鳴きそ
吾が恋まさる
 巻8-1419 鏡王女
 mo
JR三郷駅
歌碑
嵐吹く
三室の山の
もみじ葉は
龍田の川の
錦なりけり
  能因法師


                                   トップに戻る  (注)画像横のmoはナビ役写真を借用