新木山古墳 |
近鉄郡山駅近くの 大和郡山カトリック教会には右記の浦上切支丹流配者記念碑がたてられて います。それには右記のような経過が書かれています。 |
1969年(昭和44年)、「浦上切支丹大和郡山流配者記念碑」が教会の敷地内に建立されました。それまでは毎年11月、当地で亡くなった長崎浦上の流配者のために、ミサを墓のある郡山市内の雲幻寺で行ってきましたが、流配者の子孫の方々から、「教会の敷地に記念碑を」という要望があり移設されました。1969年(昭和44年)11月に完成したときは、古屋司教をはじめ、子孫の方々、県下の信徒たちも大勢集まって厳かな祝別式が行われました。 |
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大納言塚全景 |
同左説明板 | ||
《ナビ役案内文より》 大和の富雄川流域には、古代、天つ神の御子が天降り、宮を築いたと伝えられています。 古事記・日本書紀も、この伝承を無視することができず、神武東征以前に饒速日命(にぎはやひノみこと)が大和を支配していたことを認め、帰順した饒速日命を物部氏の祖神としています。 大和の伝承によると、饒速日命は、天の磐船から地上に三本の矢を射かけ、三本目の矢が当たったところに宮を築いたそうです。 三本目の矢が当たったところには「宮処(みやどこ)」という地名が残っています。鳥越憲三郎(大阪教育大名誉教授)は、物部王朝邪馬台国説を唱えました。 これを受け、大和郡山市は、当地に、「伝承邪馬台国想定地」碑を建立し、毎年5月に、女王卑弥呼祭りを催しています。12月散策会は、饒速日命の三本の矢の伝承遺跡を探訪します。 |
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スーパー「アピタ」郡山店 側を通り抜けて |
郡山市立西中学 裏道を通って |
富雄川支流を 一の矢塚を探す |
住宅街にある 割塚古墳 |
一の矢塚を探し当てて 向こう側は矢田丘陵 |
まだ新しい指示標 |
矢田坐久志玉比古 神社 境内に二の矢塚あり |
二の矢塚 |
三の矢塚 この隅に 碑がある |
説明板に見入る 今回参加者 |
同左説明板 |
南方向に耳成山が 望める |
大和民族公園の 屋根付きの休憩所 |
一呼吸してーー |
園内案内図 |
バス停にて |